第三章 もう一人の半妖
それから土日を挟んで塾が休みの間、龍二は武戎と対峙したときの不気味な感覚が頭から離れないでいた。
あのとき感じたのは、底知れない負の感情。
だがそれは武戎一人のものではなく、別の大きな意思が介在しているかのような奇妙な感覚だった。
それが気になって夜もよく眠れず、約束していた鈴との蹴鞠ではボーっとし過ぎて彼女を泣かせてしまったぐらいだ。
休み明けの月曜日、いつもの河川敷で時雨から術の指導を受けた後、時雨は珍しく神妙な顔で告げた。

どうやら、龍の血を探し求める妖がこの町に現れたらしい
夕方の黄昏に染まる川をボーっと眺めていた龍二は、表情を硬くする。


詳細は分からん。ただ、陰陽庁も妖の正体を掴むために目を光らせてるみたいだ。お前も下手に動くな

龍二は心ここにあらずといった様子で空返事をする。
危機意識が少し薄いのかもしれない。
いつもは面倒くさがってそれ以上話さない時雨だが、今だけは首を傾げて龍二の顔をまじまじと見る。

なんだ、考え事か?


どうせ金曜の摸擬戦のことだろ?
龍二は驚きに目を丸くし、時雨へ顔を向けた。
まるで心を読まれたかのようだった。
反応を示した龍二に、時雨は片頬を吊り上げて薄い笑みを浮かべると、川の前の芝生に座り込んだ。

俺も話は聞いたさ。まあ座れ
そう促され、龍二も時雨の隣に座り込んで穏やかに流れる川を眺めた。

なぁ龍二、嵐堂を傷つけられて許せないのは分かるが、武戎のことを恨まないでやってくれ


あいつもな、『半妖』なんだよ

龍二は思わず時雨のほうを見た。
だが冗談で言っているようには見えない。
時雨は龍二の反応に構わず、川を眺めながら続けた。

俺も他の講師から資料を見せてもらっただけだが、あいつは幼い頃に、『犬神』っていう憎悪の塊みたいな妖に呪われたそうだ

全身の毛が怖気立つような感覚に襲われた。
龍二もその名は聞いたことがある。
蠱毒と並んで呪詛の研究の際に生まれたとされ、極度の飢餓状態に陥った犬の首を斬ることで、その魂は怨霊として人に憑依し呪い殺す妖となったという。

けどな、そんなことになったっていうのに、両親も知り合いも、誰もがあいつを見捨てた。やがて武戎少年は妖と一体化してしまい、半妖になったってわけだ。もっと早くに誰かが手を差し伸べてやれば、手遅れになることはなかっただろうに


そうだ。あいつがたまに感情を制御できず我を忘れるのは、犬神の怨念のせいさ
酷い話だと思った。
半妖という部分は龍二と同じ。
だが決定的に違う点があった。
それは自分を支え助けてくれる存在が近くにいたことだ。
だから龍二は、どんなに辛くても、挫折しても生きていくことが出来た。
だがそれがもしなかったらと考えると、今の武戎ほど冷静でいられる自信はない。

彼のことを誤解していたと、よく分かりました。でも、そんな大事な個人情報を塾生になんか話して良かったんですか?

良いわけないだろ。俺はお前だから話したんだ。半妖のお前だから

いつの間にか、龍二の抱えていたモヤモヤは少し晴れていた。
それに時雨の今言ったことは、半妖の龍二にしかできないことがあると言っているようだった。
それがなにかは、なんとなく分かる。
龍二はいてもたってもいられず、時雨に礼を言うと陰陽塾へ向かった。
途中で桃華と合流するが、金曜日に受けた傷の後遺症はないとのことだったのでひと安心だ。
塾に着くと、まだ早かったのか、いつもは席に着いている武戎はいなかった。
龍二はため息を吐き、自分の席へ座る。
すると、静谷たちが席までやって来た。



出たんだよ、妖が!

龍二は思わず大声で聞き返す。
周囲の塾生たちが驚いてこちらに注目し、龍二は慌てて視線を逸らす。
静谷も驚いたのか苦笑した。

凄い食いつきだね。僕が聞いたのは、首のない侍の姿をした人影が深夜の路地を歩いてたって噂だよ
龍二は首を傾げる。
先ほどの時雨の話では、妖は龍の血を求めていると言っていた。
それは誰かに聞いて回っているからだと思ったが、首がないのでは、どうやって意思を確認したのだろうか。
謎は深まるばかりだ。

どうしたの、龍二くん?


う~ん……
静谷と他の男子たちが首を傾げていると、後ろから遠野が近づいて来た。

なんだお前ら、首無鬼を知らないのか?


なんでも、生前は凄腕の剣士だったらしいぞ。今では悪鬼組の幹部になってるって話だ

龍二はその言葉を反芻した。
聞いたことのある悪名高い百鬼夜行だ。
よく暴力団などの抗争に裏で関与していて、借金で首の回らくなった人間や詐欺まがいの商法で連れ去った人間を差し出すことを条件に、用心棒として力を貸すという。
関わっているのが人間の抗争であるために、陰陽庁もなかなか手出しができないらしい。
龍二が難しい顔で黙り込んでいると、静谷が苦笑しながら遠野に言った。

いやだなぁ遠野くん。あまり脅かさないでくれよ。悪鬼組の幹部だなんて、そんな恐ろしい妖がこんな田舎に突然現れるわけないじゃないか

それもそうか
遠野も頬を緩ませて肩の力を抜くと、自分の席へ戻って行った。
静谷たちも時間だからと龍二の目の前から散る。
しかしその日以降、武戎修羅は姿を現さなくなった。
…………………………
それから一週間ほど経ったある日の深夜。
飲み屋街から離れた公園にスーツ姿の若い男が二人、酔いで顔を真っ赤にしながらフラフラと歩いていた。

おいおい、大丈夫かよ

あぁん? バカ野郎。まだまだいけるぜ

いやぁ、さっきのでかなりぼったくられたし、ラーメンでも食って帰ろうぜ
酔っ払いの他愛もない会話。
そこへ音もなく近づく影があった。

――もし、若いの。少しばかり質問いいかな?

あぁん?
男が不機嫌そうに酒気をまき散らしながら、しわがれた声の主のほうを振り向くと、そこに立っていたのはボロボロな外套で全身を覆った不気味な人物だった。
フードを深々と被っているため、顔もよく見えないが、声からして老人の男であることは間違いない。

龍の血を知らないか?

は? なんの血だって?

龍の血だ

おい爺さん、頭おかしいんじゃねぇか? 認知症か?
若い男は失礼なことを遠慮なく言いながら、彼の顔を覗き込んだ。
同時に老人が顔を上げ――

う、うわぁぁぁっ!?
男は突然大声を上げて尻餅をつく。
横でぼんやり見守っていたもう一人が首を傾げていると、街灯の明かりによって彼の目にも老人の素顔が映った。

な、なんだコイツは!?

お、おい逃げるぞ!
顔を恐怖に引き吊らせながら、二人は大慌てで逃げ去って行った。
老人――般若はため息を吐く。

わしの顔を見て逃げ出すとは失礼千万。まったく今どきの若いのは
だが、ただの一般人が生の鬼の顔を見て逃げ出すのは仕方ない。
むしろ正常な反応だ。
彼はしばらく、微動だにせずたたずんで夜風に当たると「今日も収穫はなしか」と残念そうに呟き、公園を去ろうとする。


ん?
突然公園の入口のほうから声がかけられた。
その声は心なしか怒りが滲んでいるようにも聞こえる。
般若が顔を向けると、高身長の少年が一人、ずかずかと歩いて来るところだ。
彼が左手に持つ刃渡りの長い刀とそれを納めている鞘を見て、般若はニィッと口の端を吊り上げた。
しかし顔に貼りついた、生来の憤怒の形相は和らがず。

わしになにか用かな?

まるで彼を探し続けていたかのように言う少年は、武戎修羅。

はて、わしは逃げも隠れもしていないが……そうだ、若いの、龍の血を知らないか?


質問に質問で返すとは……いかにも、わしは悪鬼組・幹部末席『般若』。なぜ分かった?


なんと、首なし殿の知り合いか?

武戎は顔を憎々しげにしかめながら叫ぶ。
会話のキャッチボールをする気がまるでない。
般若はため息を吐くと、フードを外し鬼の顔を夜空の下に晒した。

まったく話にならんな。仕方あるまい。無闇な争いは望まぬが、ぶしつけな小童に鉄拳制裁を下してやるとするか
般若は籠手を装着した両手を構え腰を落とす。
武者が甲冑と共に装備するような手袋のような籠手で、青く細長い縦の筋が並ぶ革の内側には鎖帷子が編み込まれている。
武戎も腰を落とし左の鞘を突き出して構えた。

武戎が鞘を斜め上に振り上げた次の瞬間、般若の姿は視界から消えていた。