第二章 百鬼夜行・龍の臣
眩い光が収まり視界が明けると、黒い焦げ跡のできた中庭には、謎の人物が片膝を立てこうべを垂れていた。
武士の着るような灰色の羽織に焦げ茶色の武者袴を着て、籠手を装着した左手に刀の鞘を握った、身長二メートルほどもある長い金髪の男だ。
灰色の羽織は、枝分かれした雷の模様が描かれており、籠手は左手のみ。
そのチリチリと張り詰めた空気に、龍二たちは息を吞むが、銀次は頬を緩ませ眉尻を下げた。
……ようやく来たか
その正体を知っているかのような銀次の呟きに龍二が困惑していると、目の前の男は顔を上げた。
後ろで桃華が「ひっ」と小さな悲鳴を上げ、龍二の袖をさらに強く握った。
その男の顔面には、呪符がびっしりと貼られていたのだ。
奇怪で異様な相貌に龍二は唖然とする。
私は『雷丸』。鬼屋敷月菜と契約していた式神だ
謎の男――雷丸の声はいたって冷静な、落ちついた低い声だった。
だが彼の言った、「鬼屋敷月菜の式神」だという言葉が龍二の脳を揺さぶる。
式神とは、深層心理における術者の思想や憧憬などが反映された、言わば分身。
その人の性を具現化した化身であり、一種の呪いだ。
そのため、術者が死ねば基本的には式神も消滅するはず。
例外として、強い未練や事象の歪みによって妖と化す者もいるが、目の前の雷丸からそういった雰囲気は感じない。
私は、鬼屋敷月菜が殺される直前に契約を解除された。彼女との縁に縛られず、ここへ戻って来れるようにと
龍二は目を見開き固まる。
桃華も口元を両手で押さえ瞳を揺らしていた。
それほどまでに衝撃的なことを告げられたのだ。
彼は今、母は「殺された」のだと言った。
大人から聞かされていたのは、事故だったということだけ。
話が違う。
そうなれば、どうにか無理にでも納得しようとしていた龍二の苦悩は跡形もなく消え失せる。
……やはり、そうだったか
感情的になる龍二とは違い、銀次は想定していたかのように呟いた。
龍二は彼に食ってかかる。
まさか、知っていたんですか銀次さん!?
落ち着け、龍二くん。私も知っていたわけではない。想定の範囲内だというだけだ
これが落ち着いていられるものですか!
取り乱していても、なにも先に進まないぞ
くっ……だからって……
雷丸よ、教えてくれないか? 月菜くんの身になにがあったのかを
雷丸は小さく頷くと、事の真相を語り始めた。
月菜は陰陽庁の仕事で奈良の辺鄙な地にある村へ出向いていた。目的は潜伏している凶悪な妖を滅するため。
それ自体は順調に進み、上級位階でもあった妖を難なく滅すると、支局への報告に戻ろうとした。
そのとき、彼女の前に謎の男が現れたという。
眼帯をした短い茶髪で色黒の男。
彼は月菜を見て酷薄な笑みを浮かべると、問答無用で襲い掛かってきた。
その言動を鑑みるに、月菜の素性は知っていたらしい。
まさか、月菜くんですら敵わないとは……
彼女は最後まで私を使わなかった
なぜ?
奴と会ってすぐ、自分に未来はないと悟ったからだ。彼女はどうにかして、私を龍二の元へ送ろうとした。だからこそ、私と敵に接点を作り万が一、龍二の身に危険が迫るようなことがないよう、敵の油断する最後の時まで待ったんだ
龍二は拳を握りしめ悔しげに顔を歪める。
母は国家最強とうたわれる、神将十二柱の一人だ。
そんな彼女が式神を使ってさえいれば、勝てずとも逃げ延びることぐらいは出来たかもしれない。
だというのに、たった一人の息子のために自分の命すら投げ出すというのか。
君にはまだ分からないだろうが、それが親というものだ
銀次は頬を緩め慈愛に満ちた、穏やかな表情で告げた。
その眼差しは、母が自分に向けていたものと似ている。それを認識した龍二はもうなにも言えない。
目の前の男も父親。もし同じような状況なら、娘である桃華のために自分の身を犠牲にするのだろうか。
龍二はふと、右横に座る桃華を見た。
……っく、ぐすん。ひっぐ……
桃華は目に涙を溜めて溢れさせ、鼻を赤くしてべそをかいている。
これは龍二の家の問題で、桃華には直接関係はないはずだが、感受性の豊かな彼女らしい。
龍二はやれやれとため息を吐くと、ポケットから青の無地のハンカチを取り出し差し出した。
桃華は礼を言うと、ぐしょぐしょになった目元を拭う。
そんな姿を横目で見て、龍二は頬を緩め目を閉じる。
逡巡したのち、ゆっくり目を開けると、瞳に闘気を燃やしまっすぐに銀次へ告げた。
両親の想いは痛いほどよく分かった。
二人は心の底から、真に息子の幸せを願っていたのだろう。
だが、龍二の中に眠る獰猛な血は既に目覚めてしまった。
銀次はそれ以上言わずとも、彼の意思を察し、妖刀・黒災牙を差し出す。
分かっているさ。これは元から返すつもりだった。だがそれでも、この刀は抜くべきではない
龍二は横目で桃華の手の包帯を見て、声のトーンを下げる。
彼女を傷つけてしまったという罪悪感がチクリと胸を刺す。
一度目の暴走を考えると、次こそ抑えきれるという自信はない。
それもある。だが、君の継いだ龍血鬼の血は妖たちにとっても、喉から手が出るほど欲しいものなんだ
君の父はかつて、己の血を仲間に分け与え、最強の百鬼夜行を成した。龍の血というのは、妖に絶大なる力を与える。君がその力を解放するたび、妖たちは血を求めて迫り来るだろう。先日のは突然だったからまだ察知した者は少ないだろうが、既に動き出している者たちもいるはず。次からは、自ら危険を呼び寄せるものと心得なさい。だからこそ、その力はやむを得ないときの守りの力とすべきなんだ
龍二は目の前に持ってきた鞘を強く握る。
鞘の内側から溢れ出る強大な妖気は、彼を主と認めているようで高揚感を湧き上がらせた。
龍二の身に余る、あまりにも強大な力。
だがそれがなければ、今の彼にはなんの力もない。
龍二くん、分かってくれ
――だからこそ、私がいるのだろう?
思いがけない声が割り込んだ。
中庭に膝をついて異質な存在感を放つ雷丸だ。
顔には呪符が貼られているため、感情は読めないが、その言葉がどういう意味なのかは分かる。
龍二は彼へ真剣な眼差しを向け頷いた。
雷丸……力を、貸してくれないか?
鬼屋敷龍二、敬愛する元主との最後の盟約に従い、我――雷丸はあなたを主と認めよう
ありがとう。銀次さん、俺、強くなりたいです
……あの親にしてこの子あり、か。いいだろう。龍二くん、君は自らの意志で前へ進め
その日、龍二は雷丸と式神契約を交わし、熾烈な陰陽道へと身を投じる決意をするのだった。
数日後の夕方、龍二は大きなトートバッグを持って本邸へと向かっていた。
先日の嵐堂家での話の最後に、「今の家にいては危険だから、本邸へ移るように」と銀次から言われたのだ。
しかし、ずっと住んでいた戸建ての家と本邸では、敷地面積こそ違うものの、セキュリティ上で大きな違いはないはず。
龍二は一度断ろうとしたが、既に運送業者も手配していると言われ、異論は認めないと雰囲気で語っていたため、やむを得ず引っ越すことにしたのだ。
午前中で荷物は送ってあるので、自分で持っていく物は少ない。
本邸は町外れにあり、茜色に染まるのどかな田んぼ道を進んでいく。
どうしてお前もついて来るんだ?
いいじゃないですか、別にぃ
かなりの距離があるというのに、桃華はなぜか楽しそうにアホ毛をピコピコ揺らしながらついて来た。
別に迷惑というわけでもないので、龍二は苦笑するしかない。
それに、私も長らく来てなかったので気になってたんです。これからまた毎朝起こしに行くんですから、慣れておかないと
桃華はそう言って、にぃっと口の端を吊り上げて笑う。
いつもだったら「こんなところまで来るなよ」と吐き捨てるところだが、龍二は真剣な表情になる。
俺、学校はもう辞めようと思うんだ
桃華が立ち止まり、間抜けに口を大きく開け固まる。
そこまでオーバーなリアクションはしなくてもいいだろうに。
そしてアホ毛をピンと立てると、慌ててまくし立てた。
ど、どうしてですか!? 龍二さんが学校辞めちゃったら、朝起こしに行く理由がなくなっちゃうじゃないですか~~~
瞳を潤ませ少し泣きそうだ。
龍二は呆れたようにため息を吐くと拳を握る。
なんの心配だよ。とにかく俺は、陰陽師としての力を一刻も早くつけなくちゃいけないんだ。そのためには学校に行ってる時間なんてない
桃華が気まずそうに目を逸らす。
龍二は余計なことを言ったと反省し、本邸へ向かって歩き出す。
しかし、桃華がついて来ないことにすぐ気づき、足を止めて振り向いた。
桃華?
龍二さん……私、嫌な子です
急にどうした?
俯いたまま深刻そうな声で告げる桃華に、龍二は首を傾げる。
彼女に普段の元気さがなく、冗談を言える雰囲気でもない。アホ毛がしなしなと力なく垂れているのが、なによりの証拠だ。
桃華はゆっくりと、龍二の目の前まで歩み寄ると、顔を上げ目を合わせた。
苦しそうな表情で頬を歪め、不安そうに瞳を揺らしている。
龍二は思わず後ずさった。
一度は挫折した龍二さんがもう一度陰陽道へ戻るというのは、大切な人を失って、辛くて悲しい思いをした上での決断です
でも、本当はそうならないのが一番良かった
龍二は目を逸らし、まるで言い訳をするようにぼそぼそと言う。
彼女の言いたいことは分かる。
陰陽師を目指すことは、母の死がキッカケだ。
それは、本来起こって欲しくなかったこと。
桃華は唇を震わせながらも、両手をギュッと握り、まるで懺悔でもするように目の端から涙を溢れさせて叫んだ。
それなのに私はっ! 喜んでしまいましたっ!
またあなたと一緒にいられる時間が増えると思って……いけないことだと分かっていたのに、喜んでしまったんです!
涙声で叫ぶと、キュッと唇を結び俯く。
まっすぐで正直な少女だからこその苦悩。
龍二はそんな彼女を好ましく思いながらも、損な性格だと思う。
人は誰でも下心ぐらい持っている。陰陽道においては、嘘も真実も清濁併せ呑み、言霊を操らなければならない。
しかしそんな説法、今は不要。
龍二は目の前で泣きじゃくる弱々しい幼馴染の頭にそっと手を乗せた。
別にいいさ。俺のほうも、お前がいてくれて助かるし
ああ、また昔みたいによろしく頼むよ
桃華は弾けるような眩しい笑顔を浮かべた。
それでこそだと、龍二も微笑む。
そして彼女は目元の涙を拭い、ギュッと握った拳を頭上へ突き出した。
いつもの調子だ。
むしろ何割り増しかで暑苦しい。
龍二は安堵のため息を吐くと、背を向け再び歩き出す。
いや、困ったときは他の人に頼むからいいよ
え~、なんでですかー!?
後ろでギャーギャー騒ぐ桃華を置いて、龍二は楽しそうに笑いながら本邸へ向かうのだった。