最終章 リン・カーネルの逆襲
そこは人通りの少ない裏通り。
かつては多くの露店が並びにぎわっていたが、今では廃れ、ゴミが散乱していたりボロボロの衣服で寝転がっている人もいる。
塗装の剥がれたボロボロの建物に背もたれ、僕はシエンの話を聞いていた。
奴ら、俺が辞めると言ったら血相変えて泣きついてきやがった
奴らの説得を無視して出ていこうとしたら、護衛たちが襲いかかってきたから、返り討ちにしてやったけどな
その光景が容易に想像できて、僕は苦笑してしまう。
しかしアルゴス商会からシエンが抜けてくれたのはありがたい。
彼の力を利用して、襲撃されでもしたらたまったものじゃないから。
さすがにリリーナを守りながら彼と戦うのは無理だ。
まったく、あんなクソみたいな商会に残った、バカどもの気がしれないな
彼の言うバカどもとは、先日対峙したゴロツキたちのことだろう。
先日の一件があっても、懲りずにアルゴス商会の護衛をしているらしい。
いや、護衛というよりは汚れ役の手駒といったところか。
ハウルからの賠償金請求にも応じないようですし、まだなにかたくらんでいるのかもしれませんね
それだけ余裕がないんだろ。まぁ、せいぜい気を付けるんだな。あのバカども、この間見かけたときも変に浮足立ってたからよ
おそらく、またなにか行動を起こすつもりなのだろう。
彼らを捨て駒にした大胆な行動もあり得る。
狙いは賠償金を請求してきたケイト店長か、ナハルを突っぱねたリリーナ、それとも先日の店への妨害をあばきシエンを奪った僕か。
どちらにせよ、これからも十分に注意しなければ。
分かりました。ご忠告ありがとうございます
ふん、あんたに怪我されても困るからな
?
思わず首を傾げた。
どういう意味だろう?
僕が怪我をしたところで彼になんのデメリットもないはずだ。
僕が不思議そうな顔で首を傾げていると、シエンはふんっと鼻を鳴らし背を向けた。
貧民街の奥にあるという、自分の根城へ戻るのだろう。
遠ざかるシエンの背中をぼんやり眺めていると――
聞き覚えのある、低く甘い声が聞こえた。
耳の奥をくすぐるようなこのセクシーボイスは……
ウィニング様?
貴族のウィニングが、体格の良い男の付き人を従え、僕の後ろに立っていた。
彼は嬉しそうに微笑む。
あぁ、やっぱりルノさんだ。こんちには
こ、こんにちは
帰るのに近道だから、ここを通りかかったんだけど、たまたま君の姿を見つけて。取り込み中だったみたいだから、声をかけるか迷ってたんだよ
そうなんですね。話はちょうど今終わったところなんですよ
……おや?
ウィニングが僕の背後を見て目を丸くしている。
どうしたんだろうと思って後ろを向くと、シエンがまたこちらへ戻って来ていた。
なにか伝え忘れたことでもあるんだろうか。
彼は僕の横に立つと、ウィニングと目を合わせる。
その眼差しは、どこか険を含んでいるように感じたが、ウィニングはいつもの作り物めいた柔らかい笑顔で挨拶する。
はじめまして。僕は、ウィニング・グレイシャルと言います。後ろの彼は僕の従者。あなたは?
はんっ、いけすかない貴族様に名乗る名なんてない
突然の挑発的な発言に、ウィニングの笑顔が凍りつく。
僕も急にお腹が痛くなってきた。
ていうかなに? この人、貴族に喧嘩売るために戻って来たの?
それならせめて、僕のいないところでやってよ!
主の敵と認識したのか、ウィニングの従者が「お前、ウィニング様になんて口のきき方を」と前に出ようとするが、ウィニングが手で制する。
僕もどうにかフォローしようと顔を引きつらせながらも声をかけた。
へぇ、シエンさんと言うんだね。ずんぶんとワイルドな人だ。名乗ることを強制したわけじゃないから、僕は別に構わないよ
貴族への無礼を『ワイルド』で済ませられるウィニングが凄い。
しかし次の瞬間、そのにこやかな表情とは裏腹に、冷たい声を発した。
用があるのは、ルノさんだからね
あぁ?
彼女は今、君との話は終わったと言っていた。もう用はないんだから、君はさっさと帰りなよ
あんたには関係ねぇだろ。喧嘩売ってんのか
それはこちらのセリフだよ
とうとうウィニングの顔から笑みが消える。
その眼差しは冷徹で鋭く、知らない人が見たら委縮して声をかけることすらできないだろう。
僕はそろそろストレスの限界です……胃に風穴が空いてしまうよ。
「「無理だ」」
あ、そですか……
ところでルノさん、彼とはいったいどういう関係なのかな? もし恋人なら、男の趣味に疑問を持たざるを得ないな
お、おいっ、ふざけたこと抜かすな!
男と恋人だなんてとんでもない!
ほら、シエンさんだって怒って少し顔を赤くしてるよ。
そっか
しかしなぜか、ウィニングは嬉しそうに微笑んだ。
心なしか声も弾んでいたような……
ダ、ダメだ、これ以上は無理!
リリーナとケシーの言い合いなら、可愛げがあって微笑ましいけど、美形とはいえ大人の男二人がいがみ合うのは怖いだけだ。
……よし、逃げよう!
そう叫んで身をひるがえし、駆け出した。
後ろで二人が声を上げていたけど、構ってられるか!
そうして僕は、胃に穴が空く寸前で逃げ切ることができたのだった。
…………………………
それから数日、アルゴス商会の攻撃にそなえ身構えていたが、拍子抜けするほどなんの動きもなかった。
それがまるで、嵐の前の静けさのように感じられて、どうにも落ち着かない。
そんなある日の朝、意外な人が屋敷を訪ねてきた。
来訪者を告げる鐘が鳴り、僕が扉を開けるとそこにいたのは、微笑だけで令嬢を魅了してしまうほどの整った顔をした若い男爵、ウィニング・グレイシャルだった。
ルノさん、おはよう
思いもよらぬ人物に仰天したものの、無礼を働かないよう注意しながら挨拶した。
今日は誰も従者を連れていないようだ。
今日はルノさんとリリーナさんに大事な話があって来たんだ
僕は彼を応接室へ案内し、リリーナを連れてくる。
紅茶を入れて持っていくと、二人はにこやかに世間話をしていた。
先日の歓楽街では、初対面のためかあまり話はしていなかったけど、もうすっかり仲良くなったようだ。
でも、僕のことを話題にするのは恥ずかしいからやめてほしい。
僕が紅茶をテーブルへ置き、定位置であるリリーナの後ろへ立つと、ウィニングは告げた。
さて、二人そろったことだし、本題に入ろう。僕が今日ここに来たのは、ルノ・カーストさんを我がグレイシャル家へ花嫁として迎え入れるためだ
……は?
なにかとんでない言葉を聞いた気がする。
花嫁? 誰が? ……えっ、僕ぅっ!?
リリーナのほうもまるで頭痛がするときのように額を押さえている。
ん? リリーナさん、『また』とはどういうことだい?
僕は慌ててリリーナのフォローをした。
また、というのは、ケシーが来たときのことを思い出しての発言だろう。
彼女も養女だなんて話を持ち掛けてきて困惑したものだ。
って、そんなことを懐かしんでいる場合じゃない!
どうかな、ルノさん?
ダメだ、この優しい笑顔を前にしたら、面と向かっては断りづらい。
だからリリーナがまっすぐにウィニングを見据え、口を挟む。
相手が自らの力で成り上がった凄腕の実業家だろうと怯まない。
まずは理由をお聞きしても?
うん、そうだね……ルノさん
君は以前、僕に言ったね。『もし一人でどれだけあがいても、満たされないのなら、誰かの力を借りなければならないのかもしれない』と
僕にとってのその誰かが君だ。僕には君が必要なんだ
真剣な告白だった。
いつもはどこか作り物めいた表情だけど、今の彼の顔には今まで見たことのない彼の本心が現れているような気がした。
普段のどこか冷めた彼からは、想像できないほどの情熱的な眼差しだ。
もし、彼の心の隙間を埋めることができるのなら、それはとても光栄なことなのだろう。
それでも、僕は男なんだ。
だから深く頭を下げ、誠心誠意を込めて謝る。
……それは、リリーナさんの護衛としての仕事があるからかい?
それならせめて、まずは婚約だけでもどうだろう? 気持ちの整理がつくまで、今まで通りにここでリリーナさんと生活してもらって構わないから
ウィニングは退かなかった。
そう簡単には諦めないという意志が伝わってくる。
すると、ずっと黙って思案していたリリーナが答えた。
さすがに、貴族に嫁入りするような女性を、平民の護衛にしておくわけにはいかないでしょう。世間体だってある。そして、彼女は誰にも負けない優秀な護衛であり、私の大切な人です。私には彼女が必要なんです。いくらグレイシャル男爵家が相手でも、手放すつもりはありません
感激した。
まさか、リリーナさんがそこまで言ってくれるなんて。
だがそれでも、ウィニングは怯むことなく畳みかける。
もちろん、護衛としてのルノさんの実力が相当なものであることも聞いている。それをリリーナさんから奪うのだから、それなりの金銭的な交渉や、ある程度の条件の承諾が必要だということは承知の上だ
僕の心は揺れていた。
もし僕がグレイシャル家へ行くことで、リリーナの貴族への復帰が早まるのなら、それは悪くない選択なのではないかと。
あ、でもやっぱり女装がバレたらマズいか。
いったいどうすれば……
残念ながら、彼女は売り物でも、交渉の材料でもありません。その手の話には、一切応じませんのでご承知おきください
っ! 僕は別に、そういう意味で言ったんじゃ……
リリーナの突き放すような冷たい言葉に、ウィニングが初めて動揺を見せる。
そして眉尻を下げ、深刻な表情になって、僕へと頭を下げてきた。
ルノさん、許して欲しい。僕は君をそういう風に扱うつもりはないんだ。もし今ので勘違いをさせてしまったのなら、本当に申し訳ない
それに彼女には、誰にも明かせない特別な事情があるんです
あ、やっぱりその話をするのかぁ……
特別な事情? それはどんなことだろうか? もし良ければ僕に教えてくれないか? どんなことだったとしても、僕が力になるから
そうか……
僕がやんわりと告げると、ウィニングは困ったように苦笑し、深く沈むような声で「分かった」と呟いた。
今の僕では、ルノさんの信頼がまだ得られていないということがよく分かった。だから、いつか君が話してくれるまで、君の信頼を勝ち取れるように頑張るよ
そう言うと儚げに微笑み、潔く屋敷を去って行った。
引き際までスマートな人だ。清々しさすら感じる。
しかし彼の望むような未来は、永遠に来ないと僕は知っているから、罪悪感を感じ心の中で詫びる。
彼の去った後、リリーナは紅茶をのんびり飲みながら呟いた。
健気だなぁ
誰彼構わず魅了するからだよ。自業自得だ
無自覚というのがまた救えない。これ以上変な虫がつかれるのは、本当に困るな
どういう意味だろう?
さすがにケシー様やウィニング様のことじゃないよね?
するとリリーナは、自分でも口に出していたことに気付いていなかったのか、顔を少し赤くして咳払いした。
な、なんでもにゃい……