第五章 名探偵ルノちゃん
僕は間一髪のところで横へ大きく跳ぶ。
同時に、僕のいた場所がまるで爆発でもしたのかというほどの大きな音を立て、激しく砂塵を巻き上げた。
対話していたリーダー格の男も、その威力で吹き飛び地面を転がっている。
砂煙が明けると全貌が明らかになった。
一人の男が、砕けひび割れた床に拳を突き立てている。
その鋭い闘気を纏う男は、目にかかるほど伸びた白髪に、燃えるような深紅の瞳を爛々と輝かせた、長身の青年だ。
フードのついたカーキのロングコートを着て、下はボロボロの長ズボン。
見た目はただの不良だが、そこら辺に転がっている男たちとは雰囲気がまるで違う。
殺し屋のような鋭い目つきで、息苦しさを覚えるほどの圧迫感がある。
僕が警戒しながら観察していると、青年は地を蹴りまっすぐにこちらへ迫って来た。
あまりにも速い!
しかしこの距離なら、こちらの攻撃が届く。
申し訳ないが、裂傷程度は我慢してもらおう。
――不可視の一閃――
しかし見えないはずの斬撃は、紙一重でかわされていた。
青年は、僕が刀を抜く直前でスライディングし、体勢を低くすることで間一髪かわしたのだ。
なんという反応速度。
僕はこのとき、彼には一切の手加減もできないのだと直感した。
そのままこちらの足を狙って滑り込んで来る。
僕は跳んで彼の頭上へ浮いた。
そのまま空中で柄を握り、地上で隙だらけの彼を斬ろうとするが――
青年は素早く両手を床へつき、それを支えにして蹴りを放ってきた。
ただの蹴りであれば、片手で受け流し、カウンターで斬り捨てるだけだった。
しかしその足は僕の柄を押さえている。
これでは斬鉄剣が抜けない。
これにはさすがの僕も硬直した。
その隙をついて、もう片方の足を放ってきた。
攻撃を諦めた僕は片手でそれを受けて蹴り飛ばされ、受け身をとって着地する。
あんな体勢での攻撃だというのに、想像を絶する威力だ。防御した腕が痺れている。
だがそんなことを気にしている余裕はない。
彼は既に至近距離まで迫っていたのだ。
向かう討つ暇もなく、連続で繰り出される拳。
普通の殴り合いでは考えらえないような、凄まじいスピードで打撃音が鳴る。
とてつもないスピードで繰り出される重く激しい連撃を、僕は刀の鞘で受けるしかできなかった。
刀は抜かせない
この男はよく分かっている。
この至近距離での攻撃が、僕の秘剣を封じるのに有効な手段だと。
中距離では飛燕、遠距離では縮地で距離を詰める。
だから近距離で不可視の一閃を繰り出す前に潰すのが有効。
おそらくさっきまでの僕の技を見ていたんだ。
完全に油断した。
しかし幸いにも、敵は殺傷力のある武器を持っていない。
……なに?
僕は防御を捨てる。
直後、無数の打撃が雨のように襲いかかってくるがこらえる。
素早く鞘から斬鉄剣を抜き、横へ薙いだ。
鋭い白銀の一閃が宙を走り、青年の残像を真っ二つにするが、彼は既に飛び退いていた。
息を切らせた僕の口の端から、つーっと血が垂れる。
青年は生気の感じない無機質な表情で呟いた。
まさかあんた、鬼人族か?
普通の人間なら、とっくに倒れているはずだ
僕はあえて強気に出る。
全身の痛みは想像を絶するものだが、弱みを見せないよう表情には出さず、腰を落として構えをとる。
それよりも、賭けをしませんか?
……賭けだと?
……俺が勝てば?
我ながら、対等な条件として成り立っているとは思えない。
ただの苦し紛れだ。
もし仮に僕が勝ったとして、彼らが言うことを聞く保証もない。
それでも、ここで倒れるわけにはいかないんだ。
大切な友人のために。
……おもしろい
青年は初めて笑みを浮かべた。
それは、背筋がゾクリとするほど冷たく、見惚れるほど美しい。
あんた、名は?
そうか、俺はシエンだ
シエンは、その名乗りだけで満足したかのように頬を緩めると、駆け出した。
こちらも全力でいく――隠密式縮地――
次の瞬間、僕は彼の背後をとっていた。
そう認識したとき、その強靭な脚が顔の左から迫っていた。
僕の姿が見えなくなった瞬間に、回し蹴りを放っていたのだ。
しかしそれは想定通り。
僕は勢いよく地を蹴り、バックステップで距離をとる。
その体勢のまま素早く構え、風圧による斬撃を放った。
飛燕っ!
うらぁぁぁっ!
僕の渾身の一撃はしかし、耳をつんざくような叫びと共に繰り出された拳によって、消し飛ばされていた。
シエンの拳の皮膚が裂けて血が飛び散るが、それだけだ。
その程度の傷で、飛燕を防いでいる。
そんなっ!?
青年は再度こちらへ猛進。
僕は何度も飛燕による弾幕を張るが、すべてを打ち落とされる。
彼は勢いを落とさず、そのまま真正面から迫って来た。
だが彼は分かっていない。
最も避けなければならない、僕の間合いを。
飛燕が打ち消せても、斬鉄剣の刃は防げない。
不可視の一閃――
甘いっ!
見えないほどの速さで放った居合斬りは、残像を生み出すほど早いサイドステップによってかわされていた。
そして、カウンターとばかりにその拳が突き出される。
……しかし、僕の攻撃はまだ終わっていない。
――無間の殺傷範囲!
次の瞬間、突き出されていたシエンの右手の甲から肩へかけて亀裂が走り、遅れて血が噴き出した。
なに!?
攻撃を中断し、慌てて跳び退くシエン。
そして着地と同時に、左肩が裂け、次に腹部から血が噴き出す。
初めてシエンの表情が驚愕に歪んだ。
なんだこれは!?
おそらく彼に見えているのは、幾重にも煌めく無数の剣閃。
僕の間合いにいる限り、不可視の斬撃に終わりはない。
まるで暴風が吹き荒れるが如く、彼の全身を切り刻んだ。
かはっ!
そして、シエンの肩から腰までを袈裟斬りにして、ようやく倒れたのだった。
疲労困憊の僕は、しばらく動けず、その場に女の子座りして荒れた呼吸を整えていた。
こういう仕草が自然になってきていて、将来が本当に怖い。
おかげさまでシエン以外の五人を逃がしてしまった。
血だまりの中、大の字になって倒れていたシエンは、しばらくしてゆっくりと目を開けた。
先ほども息を確認したが、命に別状はなさそうだ。
ルノ・カースト……俺の負けだ
鬼人族の頑強さがなければ、間違いなく死んでいただろうから。
いやしかし、そもそも鬼人族でなければ、ここまで手こずらなかったのかもしれないが。
俺は、あんたが鬼人族であってほしくなかったがな
……ああ
あの商会は大手だと聞いてたが、まともじゃねぇ。他の店の妨害を護衛にやらせるなんてな
そうだ。俺やさっきの奴らみたいなまともじゃねぇ奴を護衛として雇うなんて、よほど切羽詰まってんだろうよ
僕の想像以上にアルゴス商会は低迷しているのかもしれない。
資金難にあえぐ弱小商会なんかだとたまに聞く話だが、人件費を抑えるために、相場を知らないゴロツキや、誰も雇いたくないような元犯罪者なんかを雇うこともあるらしい。
しかし、その後すぐに問題を起こされることも多いため、最終手段としてはリスクが高いそうだ。
戦ってみてよく分かったが、この男はそこらのゴロツキなんかとはレベルが違う。
くぐって来た修羅場の数がまるで違うはずだ。
俺は元々闇の住人だ。闇市場の傭兵や違法な取引の借金取立なんかもやっていた。だから裏の奴らにはそれなりに顔が利くのさ
まさかっ!?
どうやらアルゴスって奴は、そういう闇の商人とも関わりがあるらしい。それで俺が紹介されたってわけだ
初耳だったから驚きはしたが、思ったよりショックは受けなかった。
ここまで大きくなった商会だ。
裏の顔があってもおかしくはない。
けど、まさか護衛として雇われて、最初の仕事が営業妨害とはな。つまらなすぎてすぐにやる気を失ったぜ。まあ、他の奴らはそういうのが好きそうだったから、引き受けてたけどな
おそらく彼らを雇ったのは、そういう目的もあったのだろう。
汚れ役として使い、いずれは斬り捨てるはずだ。
さっさと縁を切ろうと思ってたんだが……まさか、あんたみたいなバケモノに出会えるとは思ってもみなかったぜ
シエンの声が弾んだ。
なんだか嬉しそうだけど、僕は全然嬉しくない。
バケモノとは失礼ですね。こんなでも、普通のおと……
おと?
マズい……危うく男って言うところだった!
ダラダラと冷や汗が流れる。
シエンさんも言葉の続きを待っているし……な、なにか別のことを言ってごまかさないと!
えぇっと、『おと』で始まるそれらしい言葉は――
――乙女です……
ぐおぉぉぉっ、僕はなにを言っているんだぁぁぁっ!?
自分で言っててめちゃくちゃ恥ずかしい……
シエンさんもぷっ、と噴き出してるし。
あんたみたいな女が普通でたまるかよ
そうですよね、普通じゃなくてすみません……
男なのに女装とかしててすみません。
男なのに自分のことを乙女とか言って本当にごめんなさい。
しかしあんた、どういう神経してんだ?
ど、どういうことでしょう?
さっきまで本気でやりやってた相手を前にしてるのに、まるで何事もなかったかのように平然としてやがる
別に、シエンさんに恨みはないですから。私はただ、大切な友人のために戦ったに過ぎません
はぁ? 他人のために体張ってるってのか?
そうですよ。でも護衛だったら当然でしょう?
どんな仕事だろうが、自分の身を優先するに決まってる。命あっての物種だろうがよ
そうですか、私はそうは思いません。なにがあっても、彼女のために自分のすべてを賭けたいと思っています
理解できねぇな
それから、穏やかな静寂が流れた。
しばらくすると、シエンがゆっくりと体を起こした。
僕が彼の様子を眺めていると、こちらへ顔を向け頷く。
……それでは、約束を果てしてもらいましょうか
僕は穏やかにそう告げ立ち上がると、カフェ・ハウルへと歩き出す。
シエンも立ち上がり、後ろについてくる。
そして小さくぼそりと呟いた。
ちっ……惚れたぜ
? 今なにかおっしゃいました?
なんでもねぇよ、バカ
??
なぜ僕は、最後に罵られたんだろう?
さすがに血だらけの姿で夜道を歩くのはマズいので、シエンには僕の持ってきていたコートを羽織らせた。
彼を連れて閉店後のハウルへ戻ると、店長とまだ他に店員が残っていたので、一人はリリーナを呼びに走ってもらい、一人にはシエンの手当てをお願いした。
すぐにやって来たリリーナは、ボロボロの僕と血のにじんだ包帯だらけのシエンを見て驚いていたが、僕は今日起こったことのすべてを話した。
…………………………
その日、アルゴスの執務机の上には数枚の書類が置かれていた。
アルゴスは怒りを抑えた静かな口調で、呼び出したナハルへ問い質す。
彼は顔を真っ青にして唇を震わせていた。
いつもの自信に満ちた憎たらしい男とは思えない。
も、申し訳ございません! 凄腕の剣士と聞くルノ・カーストなる平民を引き入れようとしたのですが……
アルゴス商会に送られてきたのは、カフェ・ハウルからの賠償金の請求書だ。
アルゴスは知らぬ存ぜぬで押し通すつもりだが、部下の無能さににえたぎる怒りが収まらない。
どんどん憤怒の色が濃くなっていく表情を見たナハルが、慌てて口を開いた。
シ、シエンの奴が裏切りおったのです! その場に居合わせた者たちの話では、ルノ・カーストに一騎打ちを挑み敗れたと。それであちらへ寝返ったのです
シエンか。奴はなぁ、知り合いの闇商人に無理を言って紹介してもらった、貴重な人材だったんだぞ! それをむざむざ手放すなど……貴様の采配ミスだろうがっ!
もっ、申し訳ございません!
アルゴスの剣幕に耐え切れず、ナハルはとうとう床にひざまずいた。
額を床へすりつけ、平身低頭で謝罪する。
状況は最悪だ。
店の妨害はバレて賠償金を請求され、安月給で雇ったゴロツキの護衛のうち、最も期待されていた鬼人を失い、なに一ついいことがない。
震えながら謝り続けるナハルを、アルゴスが侮蔑の眼差しで見下ろしていると、ボロスが駆け込んできた。
興奮したように豚鼻をひくひくさせ、息を荒げている。
相当慌てているようだ。
そ、それが……審査で落とされてしまいました
ひっ
ナハルへの怒りが収まっていなかったアルゴスは、必要以上の大声を出す。
しかし商会の資金繰りを考えると、いよいよ危機が迫って来た。
どうも先日の取引の件を知っていたようでして
アルゴスは難しい顔で唸る。
するとようやくナハルが立ち上がる。
今の護衛に、商品の運送をさせるというのはいかがでしょうか?
シエンさえいればそれも考えたが、残っているのは町の喧嘩自慢だけだろう。返り討ちにあって死ぬのがオチだ。どうせ使い潰すのなら、もっとマシな使い方を考えろ
は、はい……
ナハルは声のトーンを下げる。
仲間を簡単に切り捨てろと告げる、アルゴスの目が怖かった。
いつか自分も切り捨てられるのではないかという漠然とした予感があった。
ボロスが神妙な表情で声を上げる。
アルゴス会長、実はもう一件ご報告したいことが
他の幹部が噂に聞いたという話なのですが、実は最近、キュリオン商会が急速に商品在庫を増やしているというのです
アルゴスはすぐに気付いた、キュリオン商会の目的に。
その通りだというように、ボロスが頷く。
奴ら、我々が商品の値上げをした後、顧客を奪うつもりではないでしょうか?
アルゴスは気色ばんで拳を机へ打ち付ける。
金庫番からの融資は受けられず、資金難のため商品の値上げをするしかないが、そうなると競合に対する優位性を失うため、顧客を奪われる。
もう破産は目前まで迫っていた。
あ、あいつとは?
あの宝石商だ。奴の娘がリン・カネールに惚れたなどと抜かしたことがすべての始まりだ。それが原因で奴をクビにし、すべてがおかしくなった
そ、それは……
ナハルは言葉に詰まる。
分かっているのだ、ただの逆恨みだと。
それでもアルゴスの目に渦巻く憎悪の火は反論を許さない。
許さんぞ、絶対に!
追いつめられ、憎悪の火に焦がされたアルゴスの次にやることは、もう決まっていた。