第三章 貴族たちの世界
ウィニングと別れ、僕は屋敷のほうへ歩き出した。
そろそろほとぼりも冷めている頃だろう。
さっさとリリーナを見つけて帰りたいと頼み込むんだ。
ウィニングとの話は、その後にゆっくり聞かせればいい。
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――こらぁっ、ルノ!
考え込んでいると、いつの間にかリリーナが前方から歩いて来ていた。
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なに一人で勝手に逃げてるんだ。職務怠慢じゃないのか?
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も、申し訳ありません
ピンチの僕を放置するあなたも悪いです、と言いたい。怖くて言えないけど。
リリーナも眉を寄せてムッとしてはいるが、本気で怒ってる感じじゃない。
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実は、あの場にアリエスさんがいらっしゃいまして
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ああ、あの女狐か。私も見つけたから、ルノには手を出すなと釘を刺しておいたよ
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あ、ありがごうございます
いや女狐て……
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だが彼女も、あの美貌に並外れた才能だ。やはりそれなりの人気があるらしいな。男女問わず話す相手が途切れなかった
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さすがですね
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まぁ君の姿が見えなくなると、興味なさそうに受け流してどこかへ消えたけど
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あはは……
乾いた笑いしか出てこない。
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それよりも君ぃ、あの場は謎の美しき令嬢の話題で持ち切りだったぞ。その奥ゆかしさと色気にやられてしまった男も多いらしくてな。誰が一番に求婚するのか言い争いが起こってたぐらいだ
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か、勘弁してくださいよぉ……
ダメだ、もう泣きそう。
もし男なんかにプロポーズされたら、一生のトラウマになりそうだよ。
でもそう考えると、アリエスのほうがまだマシなのかもしれない……
変態でなければ。
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まったく、出会った人たちすべてを虜にしないと気が済まないのか、君は? この悪女め
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そう思うのなら、もう少し化粧の手を抜いてくださいよ
僕は口を尖らせる。
リリーナが楽しいからと、髪の手入れやら化粧やらを好きにさせているのが悪かったのかもしれない。
どうも力を入れ過ぎている気がする。
どう考えても、肌や髪の艶が男のものじゃない。
リリーナは頬をほんのりと朱に染め、イタズラっぽく片頬をつり上げた。
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却下だ。君を美しくするのが今の私の楽しみだからね
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はぁ、そうですかぁ……
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えらく疲れた顔をしているな。今日はそろそろ帰るか
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そうしましょう!
僕が顔を上げてすかさず返事をすると、リリーナはきびすを返し屋敷のほうへと歩き出した。
最後にケシーへ一言別れを告げてから帰るらしい。
さすがにパーティーへ参加させてもらっている身なので、僕も文句を言わずついていく。
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――きゃぁぁぁぁぁっ!
屋敷に近づいていくと突然、甲高い悲鳴が聞こえた。
入口のほうから蜘蛛の子を散らすように次々と人が出て行くるのが見える。
そのまま逃げる者もいたが、一部は立ち止まり、二階のバルコニーを見上げた。
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なんだ!? いったいなにが起こった!?
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あっ、リリーナさん、離れないでください!
僕の制止の声も聞かず、リリーナは駆け出した。
周囲を警戒しつつ、その後を追う。
屋敷の前まで来ると、なにが起こっているのかよく分かった。
二階のバルコニーで、一人の令嬢が切羽詰まった表情の男からナイフを向けられている。
男の服装を見たところ商人のようだが、その濁った瞳に宿る憎悪は、とても貴族令嬢に向けるようなものじゃない。
それを見たリリーナが悲痛の叫びを上げた。
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ケシー!
そう、今危険にさらされているのは、リリーナの友人ケシーだ。
その両親は下におり、娘が一人になるのを狙われたようだ。
ケシーに似た母らしき女性は祈るように両手を握ってバルコニーを見上げ、父らしき美形の男は警護の騎士たちへ彼女を助けてくれと懇願している。
だが、この状況では騎士たちにはどうにもできない。
現に、バルコニーではケシーと男を騎士たちが取り囲んでいるが、二人の距離が近いこともあり、うかつ
に近づくことができないようだ。
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そんな……いったい、どうすれば……
悔しさに拳を握りしめる。
今、僕たちにできることはなにもない。
取り囲んでいる騎士たちが、まずは落ち着いて話をしようと声をかけており、あの男が対話に応じてくれるのを祈るだけだ。
そのとき、僕の袖を小さな力が引っ張った。
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……リリーナ、さん?
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ルノ、お願いだ
普段の彼女からは考えられないか細い声だった。
不安に押しつぶされそうな泣きそうな表情。
彼女も最悪の事態を恐れているのだ。
そして瞳を不安に揺らしながら、震える声で懇願した。
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ケシーを、私の友達を助けてっ!
そこにいたのは、誇り高き元貴族令嬢でない。
ただの一人の女の子だ。
彼女は僕に言っている、友達を助けてくれと。
無理を承知で――
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――っ!
違う、すがるだけの眼差しじゃない。
まっすぐに僕を見上げる瞳には強い意志がある。
彼女は信じているんだ。
僕ならケシー・アストライアを、彼女の友達を――大切な日常を、守ることができると。
だから、僕も護衛として、その求めに応えなければならない。
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お任せください
安心させるように柔らかく微笑むと、僕は駆け出した。
蹴った地は砕け、勢いよく風を切る。
動揺して逃げ惑う人々の間を縫い、疾風の如く走り抜ける。
今から屋敷へ入って、バルコニーへ上がっている暇はない。
それどころか、バルコニーの真下までもまだ遠い。
僕は、無礼を承知で力の限り叫んだ。
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突然の叫び声にケシーは驚いて肩を震わせた。
さすがに下を見ている余裕はなく、目の前の凶器から目が離せない。
それでも、僕の声は届いたはずだ。
その証拠に、男のほうも僕の発言の意図に気付いたのか、焦燥の表情を浮かべ、凶器を強く握り腰を落とした。
騎士たちが慌てて叫ぶ。
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ま、待てっ!
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早まるな!
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うるさぁぁぁいっ!
そしてケシーへ向かって一直線に走り出した。
だが既に、彼女はバルコニーの柵へ駆け寄っており、それを乗り越えて飛び降りる。
柵が低くて本当に良かった。
そのおかげでスムーズに乗り越えることができたから。
振るわれたナイフの切っ先がケシーのドレスを切り裂いたが、ギリギリ体には当たっていない。
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きゃぁぁぁぁぁっ!
空中でケシーが絶叫する。
下にいる貴族たちも慌てふためいて、誰一人彼女を受け止めようとはしてない。
いや、そんな勇気がないんだ。一瞬でも誰かの命を預かるという、その責任の重さを受け入れる勇気が。
だから、僕が走る。
地面を抉る勢いで足に力を込め、思い切り跳ぶ。
そして落下するケシーへと無我夢中で手を伸ばした。
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あと少し、あと少しで手が……届いた!
握ったケシーの手を強く引き、自分の胸元へ抱き留める。
そしてお姫様抱っこの形で抱えると、両足でしっかりと着地した。
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無事を確かめようと顔を覗き込むと、彼女は茫然と目をパチクリさせていた。
今の状況が理解できていないようだ。
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へ? あ、あなたは……
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僕は安堵のあまり目に涙を浮かべていた。
男らしくはないけど、今回ばかりは許してほしい。
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やめろ! 離せぇぇぇぇぇっ!
叫び声が聞こえ、上を見上げると、男は騎士たちに取り押さえられていた。
それでようやく実感がわいてきた。リリーナの大切な人を守ることができたという実感が。
周囲を見回すが、他に危険人物の姿はない。
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……あ、あのぅ、そろそろ下ろして頂けると……
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胸の中でぼそぼそとした呟きが聞こえ下を向くと、僕の顔を見上げていたケシーが、ぼーっとした表情で頬を真っ赤にしていた。
僕は慌てて彼女を下ろし、そして頭を下げる。
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先ほどは、失礼なことを言ってしまい、申し訳ありませんでした
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さっきの声はあなただったんですのね。謝らないでください、こうして助けて頂いたわけですし……本当にありがとうございました
彼女は深く頭を下げた。
こういう状況だというのに、優雅に対応できるところは尊敬できる。
さすがは貴族令嬢だ。
静まり返っていた周囲から、拍手喝采が巻き起こった。
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素敵すぎます、麗しのお姉さま……
うぅぅぅ、めちゃくちゃ目立ってるぅ~
まあでも、今回は仕方ないか。
リリーナも嬉しそうに涙を浮かべながら手を叩いてるし。
すると、鳴りやまない歓声の中から、ケシーの両親らしき夫婦が駆け寄って来た。
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ケシー!
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お父様! お母様!
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無事で本当に良かった……
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ご令嬢、どなたかは存じませんが、娘を助けてくれて本当にありがとうございました
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い、いえ、お気になさらず
高貴な身分の二人に頭を下げられ、僕は逆に恐縮してしまった。
その後、すぐに取り押さえられた男が外へ連れて来られ、騎士たちが男の動機を問いただした。
どうやら血酒のオークションで偽物を掴んでしまったらしく、それを訴えたときの主宰者であるアストライア家の対応が気に入らなかったようだ。
それが原因で破産寸前まで追い込まれてしまったというのだから、気の毒ではある。
それでも、ケシーを襲ったことは許せない。
僕はため息を吐くと、ケシーと話をしているリリーナの元へ戻る。
こちらに気付いたケシーは、頬を赤らめながら歩み寄ってきて、上目遣いに見上げてきた。
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ル、ルノさん、先ほどはその……凛々しくて、カ、カッコ良かったですわ
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うん、私からも言わせてくれ。ケシーを助けてくれて本当にありがとう
リリーナも目元を潤ませながら珍しく礼を言ってくる。
しかし僕には、今はまだ歯切れの悪い反応しかできなかった。
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ルノさん、どうしたんですの?
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なにか気になることでも?
どこか違和感があった。
いくら信用のある人しか来ないとはいえ、騎士たちも警護していたし、たった一人の商人の犯行をそう簡単に許すはずがない。
なにか胸騒ぎがする。
そのとき、どこからかかすかな殺気を感じた。
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背後を振り向くと、中年の騎士が至近距離まで迫り、剣を振り上げていたのだ。
しまった、騎士に協力者がいたのか!?
もしこの男が手引きしていたのであれば、スムーズに事が運べたのにも納得がいく。
しかしまずい、完全に油断していた。
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きゃあぁぁぁっ!
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なっ、なんだ!?
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その軌道はまっすぐ僕の頭上へ。
受け止めるための武器も今は持っていない。
紙一重で避けることはできなくはないが、そうすれば後ろのケシーに刃が届いてしまう。
『あれ』をやるしかないか。
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僕は目を見開き、迫りくる白刃を凝視した。
全身から覇気を解き放ち、荒々しいオーラが溢れ出る。
今の僕の時間間隔では、すべてが遅く見える。
時が止まって見えるようだ。
その一瞬のうちに、刃の進行方向、角度、込められた力、速さをしっかりと見極める。
そして、僕は両手を頭上へ上げ、力を込めて合掌した。
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――バシイィンッ!
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バ、バカなっ!?
騎士が信じられないというように驚愕の声を上げる。
無理もない。
僕は両手の平を合わせ、まっすぐ振り下ろされていた剣の刃を挟んで止めていたのだから。
真剣白羽取り。
カーネル家の秘技。
まさか、こんな技を使う日が来るなんて。
さすがの相手も茫然と固まっている。
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その隙に刃へ横へそらし、体を敵の懐へ入れる。そして、無防備なその腹部へ肘を叩き込んでやった。甲冑の防御を貫通するほどの威力を込めて。
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ごふっ!
衝撃が甲冑を貫き、騎士が怯んだ隙に手首を強打して剣を叩き落とす。
そして、足を払って体勢を崩させると、無防備な胸へ強烈な掌打を叩き込み突き飛ばした。
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ぐぅっ!
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僕の切羽詰まった声で我に返った他の騎士たちは、ようやくもう一人の襲撃者を捕らえたのだった。