第三章 貴族たちの世界
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朝食後、紅茶の入ったティーカップを彼女の前へ置きながらたずねる。
リリーナは朝からとても顔色が良く、声が弾んでいた。
しかし僕の気持ちは複雑だ。
そりゃそうだろう。
大勢の貴族や商人たちが見守る中で、かなり目立ってしまったのだから。
ケシーの両親に聞かれては、名を名乗らないわけにもいかなかったし。
いやぁ、昨夜は興奮のあまり寝れなかったよ!
なにを他人事みたいに言ってるんだ。昨日の君の活躍のおかげだよ
やっぱりそれかぁ。
リリーナさんの睡眠時間を奪うなんて本当に申し訳ない。
僕が困ったように苦笑していることなんて気にせず、彼女は紅茶を一口飲んだ後、嬉しそうに頬を緩ませた。
うん、実に痛快だった。最後の剣を受け止めた技なんて、いまだ現実のこととは思えないよ。あんな凄い光景を見せられたら、女の私でも胸が躍る。ケシーなんて、心あらずといった感じで、君が立ち去るまで熱に浮かされたように見つめていたし。美しい令嬢たちやボンボンどもも、君の姿に釘付けだった
思い出すだけで恥ずかしい。
だって、女装した姿で目立つんだよ? 客観的に見てイタイ奴じゃないか。
もしこれで、男だとバレた日には一生笑いものにされる、社会的に死ぬ。
僕へ向けられていた羨望が軽蔑に変わるんだ、想像しただけでも恐ろしい。
まぁでも、リリーナさんが嬉しそうなので我慢するけど。
私を見る貴族たちの目が明らかに変わったよ
僕の頬が引きつる。
そりゃあ、帰り際にあんなにピッタリくっついて歩けば、マウントもとれるでしょうよ……
おまけに勝ち誇ったような笑みまで振りまいてたし。
それにしても、今日のリリーナさんはやけに興奮してる。
やっぱり寝不足だからかなぁ?
あの場にアリエス・コリンがいなくて良かった。興奮した彼女なら、君を押し倒してもおかしくないからね
屋敷での彼女のサディスティックな笑みを思い出し、背筋が凍る。
もし襲われたら男だとバレて即破滅だ。
そのときは秘技を駆使してでも逃げなきゃいけない。
僕がガクガクブルブル震えていると、リリーナは急に真剣な表情になり改まって姿勢を正した。
本当にありがとう、私の友人を助けてくれて
その言葉は純粋に嬉しかった。
彼女の日常を守れたことがとても誇らしかった。
僕の顔が自然とほころび、リリーナをぽーっと見つめていると、彼女は咳払いして少し頬を赤くし、目を逸らす。
昨日の君は、男として見ても、その……凛々しくて、かっ、カッコ良かった……
なんていう不意打ちだろう。
不覚にも胸が高鳴ってしまったじゃないか。
僕は、そういう男としての魅力を褒められることに飢えているんだ。
も、もう一回! 今のもう一回言ってください!
僕が横からリリーナの目を覗き込んで懇願すると、彼女は「ぅ~~~」とますます赤くなって俯いてしまう。
ち、近いよぅ……
耳まで真っ赤にしてゴニョゴニョ呟く姿は、いつものリリーナとは違い、とても可愛らしかった。
いつもは堂々としているが、見た目は小柄で可憐な女の子なんだ。
こうしていると妹のように思えてきて微笑ましい。
だから僕はニヤニヤするのを抑えられず、思わず率直な気持ちを口にしてしまう。
へにゃっ!?
ガタンと大きな音を立て、リリーナは飛び退く。
す、凄い運動神経だ。
あまりの速さに僕も目を丸くしてしまう。
いや、それよりも今、彼女の口から出てきた可愛らしい声はなんだ?
そっちのほうが驚いた。
み、見るなぁっ
リリーナは羞恥にわなわなと唇を震わせ、両手で顔を覆う。
なんだろう、いつもの彼女とのギャップに、なんだかイケナイことをしているようでドキドキしてくる。
うぅ~ん、なんか収拾がつかなくなってきたなぁ……これ以上なにかすると、後が怖いからどうしたものか。
僕が困り果てていると、玄関のベルの音が響いてきた。
お客様だ、ナイスタイミング!
僕はわき目も振らず居間から出て行く。
私、お客様をお出迎えしてきますので、どうぞごゆっくり~
あっ、リ……ルノ!
僕はホールの階段を降りながら、ゆっくり呼吸を整える。
冷静に、冷静に。
ふぅっ、と一息ついて落ち着きを取り戻すと、ゆっくり玄関の扉を開けた。
はいっ、お待たせしました!
ル、ルノさん! ご、ご機嫌よう!
そこに立っていたのは、ケシー・アストライアだった――
クイント家の屋敷は現在、修羅場と化していた。
なぜかケシーは僕の腕に抱きつき、幸せそうに頬をとろけさせている。
そしてそれを見て、リリーナは憤怒の形相で仁王立ちだ。
うぅ、なんか胃がキリキリする。
まぁ、色目を使うだなんて、女同士なんですからスキンシップの範囲内ですわ
ケシーはそう言って僕の腕に頬ずりしてくる。
『女同士のスキンシップ』と言われて、僕は罪悪感にさいなまれていた。
あぁ~ごめんなさい! 騙していて本当にごめんなさい!
だがそんな後ろめたい気持ちも、腕に押し付けられた膨らみによって弾け飛ぶ。
や、柔らかいっ!?
僕の脳に衝撃が走った。
う、腕に押し付けられているこれは、もしかしなくても、お、おっぱ、ぱぱぱぱぱぱぱぱパイーン!?
いけない、思考がすべて吹き飛んでしまった……
顔を赤くして、どうしたんだ? ルノ
リリーナが絶対零度の目を向けてきていた。
視線だけで胸をわしづかみにするような鋭い目がこ、怖すぎる。
彼女は僕が男だと知ってるから、喜んでると勘違いしているんだ。
ど、どどどっどうしよう!?
僕があわあわしていると、ケシーはさらに腕を強く抱き、リリーナへ告げた。
ルノさんをアストライア家の養女として迎え入れますわ
却下だ
どうしてあなたに決める権利がありますの!? あなたは所詮、ただの雇用主でしょう? もし彼女に金銭面での問題があるのなら解決できます。ですから、もうあなたの元で働く必要はありませんわ
そもそも急すぎる。ルノをアストライア家に迎えて、どうするつもりだ?
わ、私のお姉様になってもらうのですわ。ずっと前から、ルノさんのような素敵なお姉様が欲しかったの
はぁ? 寝言は寝てから言いなさいな
お父様もお母様もルノさんならと、お許しくださいましたわ
やれやれ、そんな理由で押しかけられても困るな。ほら、ルノからもなにか言ってやってくれ
あれ? 僕の思考が吹っ飛んでる間に、なんか凄い話になってない?
ケシーは期待に満ちた、キラキラした目で上目遣いに見てくるし、リリーナは威厳に満ちた力強い眼差しで見つめてくるし、針のむしろだ。
誰か助けてぇ……
ルノさん、ぜひとも当家の養女になってくださいな。そうすれば、もうお金の心配もいりませんし、大好きなスイーツだって食べ放題ですのよ?
ルノ
ひぃっ、また地獄の底から響くような声が……
いけないいけない、僕としたことが。
とても魅力的な提案だけど、彼女が言っているのは僕を『養女』として迎え入れることだ、『養子』じゃない。
正体を明かしてしまえば、話は変わってくるのだろうけれど、リスクが高すぎる。
僕が男と知ったとき、彼女はどんな反応をするのか、憧れのお姉様を見つけたという幻想を砕いたとき、彼女はいったいどんな行動に出るのか、それを確かめる覚悟が僕にはない。
僕はケシーからそっと体を離すと、意を決して告げた。
そんなぁっ! どうしてですの!?
ルノはな、人には話せない大変な事情を抱えているんだ。そしてそれを知っている私としか、一緒にいることはできない
リリーナは神妙な表情でそう告げた。
っておぉぉぉぉぉい!
またなんてことを言ってくれるんだこの人はぁ!
どうしていつもそう、余計なことを言うかなぁ!?
あー頭が痛くなってきた。
そんな事情があるんですの? それなら、私にも教えてくださいまし。どんなことでも必ず受け止めてみせますから!
ダメだ、君に話すことはできない」
リリーナは口では深刻そうに言っているが、勝ち誇ったようなドヤ顔をしている。
この表情は……ただマウントを取りたいだけじゃないかぁぁぁっ!
今朝の可愛らしい反応といい、僕には妹が駄々をこねているようにしか見えない。
ケシーが捨てられた子猫のように潤んだ瞳で見上げてくると、罪悪感がこみ上げてきた。
それでも僕は、すべてを明かして楽になりたい気持ちを抑え、頭を下げる。
本当に申し訳ありません
そう、ですか……
ケシーは悲しげに呟きうつむく。
あぁぁぁ、心が痛いぃ。
……諦めません
え?
私、ルノさんのこと……いえ、ルノお姉様のこと、諦めませんから!
何度来たって同じだよ。私とルノの絆は、誰にも断ち切れない
ケシーとリリーナがにらみ合う。
バチバチと火花を散らし、それぞれの背後には、虎と龍が見えるようだ。
いや、どうして本人を無視して話を進めるの、あなたたち。
それでは今日のところは失礼しますわ。ルノお姉様、リリーナ、ご機嫌よう
怒涛の嵐を巻き起こした張本人は、優雅に去って行くのだった。