第一章 絶望の異世界
少年は奈落の底から目を覚ました。
薄っすらと目を開けると、まぶたに刺さる天井の明かりが眩しい。
ヒノキの匂いのする小さな部屋の天井には、ランタンが吊り下げられ火が灯っている。
彼はぼんやりとした意識の中で、周囲の声に耳を傾けた。
……これは酷いな。生き残りは彼だけか?
おそらく……
とりあえず神官は呼んだ。彼らが到着して治癒魔法をかけるまで、お前が様子を見ていろ
聞き捨てならない言葉が少年の耳に入った。『魔法』という非科学的な言葉だ。少年は訳が分からず、意識を失う前までの記憶を遡る。
名は『加治柊吾』。
これといって印象に残らない平凡な顔立ちで、交友関係は広く浅い。『モンスターイーター』というアクションゲームが得意な気の弱い『三十五歳』。
職業はエンジニアで、何度か転職し自動車やロケット、電気設備などの整備や設計の仕事を行ってきた――と、記憶している。
柊吾はむぅと唸る。
すると、一人の男がすぐ横まで歩み寄って来て、そちらへ目を向ける。
男の姿を見た柊吾は目を丸くした。
人の良さそうな顔立ちの細身の男は、柊吾の好きなハンティングゲームの序盤で見るような、茶色のレザーアーマーを着込み、腰に西洋風の剣を下げていた。
良かった! 目を覚ましたのか!
男は安堵に頬を緩めると、柊吾の横に膝を落とす。仰向けに寝ていた柊吾は、顔を男へと向け口を開くが言葉が出ない。
無理はするなよ。君は近くの廃墟で魔物に襲われていたんだ。もうすぐ神官が来て治癒魔法をかけてくれるから、今は安静にしていなさい
『魔物』、『神官』、『治癒魔法』、そして男の恰好。
ようやく柊吾は一つの仮説を導き出すことができた。
その可能性に思い至ったとき、柊吾は右頬をつり上げた。
嬉しかったのだ。
たとえ、一時の夢であっても異世界にいるというだけで胸が躍る。
今まで、ゲームでどんなクエストをクリアしようとも、ここまで歓喜したことはない。
君、笑って、いるのか……
男が顔を引きつらせ声を震わせる。まるでなにかおぞましいものでも見ているかのような反応だ。
男が固まっているとすぐに一人の女が部屋に入って来た。
彼女は手に木製の長い杖、全身を赤い線の入った白装束で覆い、顔の下半分も白のベールで隠している。まさしく白魔術師といった風貌だ。金髪で耳の先が長く尖っていることから、すぐにエルフを連想した。
柊吾が目を輝かせていると、女はすぐに何事かを呟き柊吾へ手をかざした。
鮮やかな緑色の光が柊吾の体を照らし、しばらくして体が動くようになった。
男と女は「安静にしておくように」と、柊吾へ告げ部屋から出て行った。
夢心地でこれからのことに想いをはせる柊吾だったが、そこで初めて大事な見落としに気付く。
ようやく首は動くようになった。しかし両腕も両足も反応しない。
いや、そもそも感覚がないのだ。柊吾は嫌な予感にバクバクと心臓を響かせながらも、顔を右へ向け右腕の状態を見ると……
衝撃に目を見開く。『右腕がなかった』。左に目を向けると左腕もなかった。その感覚は両足も同様で――
その絶叫は、いまだ声変わりもしていない穢れなき少年のものだった。
カジ・シュウゴ、十二歳。
とある村で魔物に襲われ、両腕と両足を失くした少年。
大量の村人の死骸が散乱する中、彼が村の最後の一人として町の討伐隊に救助された。
身内は全員死亡しており、ショックで記憶を失った彼は町の孤児院に引き取られ、療養を余儀なくされる。
それが、この世界における柊吾のスタートだった。
…………………………
この世界は滅亡の危機に瀕している。
二十年前、突如として『凶霧』と呼ばれる謎の霧が地上に蔓延し、あらゆる生物を飲み込んでいったからだ。
まず人間とそれに近い種族たちは多くが病に倒れ、そのごく少数が生き延びた。魔物たちは正気を失い凶暴化し、中には突然変異するものまでいた。
その後、凶霧と凶暴化した魔物たちによって、穏やかだった世界は瞬く間に阿鼻叫喚の地獄と化す。
なんとか生き残った種族たちは、小さな拠点で身を寄せ魔物を狩りながら、毎日を細々と生きている――
倒壊した民家の影に隠れたシュウゴが呟く。
この世界で目を覚ましてから十年後、彼はハンターとなっていた。
燃えるような赤髪に精悍な顔つきで、数十メートル前方を回遊する獲物を見据えている。
今回のクエストは、フィールド『廃墟と化した村』で魔物『イービルアイ』二体と『カトブレパス』一体の討伐だ。
そう呟いてシュウゴは廃墟から飛び出し、魔物たちへ向かって駆け抜ける。
その両足には噴射機構付の義足。
左右それぞれの腰側面に、キャノン砲のような短めで四角い噴射バーニアが装着され、ブーツには左右と足の裏にも小さな噴射口が付いている。
義手には、肘から車のマフラーのようなバーニアが伸びており、腕の向きを変えることであらゆる方向へ噴射が可能。
それらは暗めのメタリックカラーでコーティングされており、装備名を魔術機動・強化装甲『隼』。
今回が初の実戦だ。
武器としては、全長二メートルほどもあり、刃幅も全身を覆い隠せるほど広い超大剣『グレートバスター』を右肩に乗せている。
シュウゴが走り出してすぐに、上空のイービルアイ二体が反応した。
半径一メートルほどの巨大な目玉の後ろに紫の翼を生やし、申し訳程度の足をぶら下げた一つ目玉の怪物だ。
イービルアイたちは接近するシュウゴを見据え、目玉の中央に光の収束を始めた。
イービルアイの目から高熱量のレーザーが放たれる寸前、シュウゴは地を蹴ると同時に、炎魔法による『燃焼』と風魔法による『圧縮』を発動し、腰のバーニアを噴射した。
――バシュゥゥゥンッ!
噴射音と共に勢いよく地を蹴った直後、二本のレーザーが地面を焼く。
しかしシュウゴは、既にイービルアイと同じ高度まで飛び上がっていた。
先ほどと同じ要領で腰のバーニアを背面へ噴射し目の前の敵へ肉薄する。
彼の高速な接近に気付いたイービルアイが第二射を諦め、その硬いまぶたを閉じようとするが――
瞬時に間合いを詰めたシュウゴが巨眼を横一文字に薙ぎ払う。
キィィィィィッ!
断末魔の悲鳴を上げ、血をまき散らしながらイービルアイは墜落していった。
シュウゴもまた、次の一体へ迫るべく腕の噴射で向きを変える。
十メートルは離れているもう一体のイービルアイは、既に光を収束させていた。
シュウゴは構わず、腰バーニアを出力全開にして真正面から突っ込む。しかし間に合うこともなく、イービルアイのレーザーが放たれた。
左腕を前へ突き出し叫ぶと、蒼白く半透明の盾が腕に生成され、レーザーを受け止めた。
レーザーの圧力とバーニアの噴射力が均衡する。
だがそれも一瞬。
すぐにレーザーの照射が終わり、シュウゴは左腕を横へ払うと、大剣の切っ先を前方へ向けた。そして全速力で噴射突進し、巨眼の中央へと深く突き刺した。
キィィィィィッ……
イービルアイの下瞼を足の裏で蹴り、刃を引き抜くとその死骸は落下していく。
そしてすぐ下、上空での戦いに見向きもしていない、灰色の強靭な外殻と体毛に覆われたカトブレパスを捉える。
四足歩行で馬などよりも一回り大きいが、その長い首と重い頭のせいか、地面すれすれまでしか顔を上げられていない。
シュウゴはバーニアを断続噴射して敵の頭上まで移動すると、大剣を両手で振り上げた。
急速に落下し、カトブレパスの背中から渾身の一撃を叩きつける。
カトブレパスは野太い声で唸り声を上げ、ドスンッと勢いよく倒れた。
カトブレパスは防御力が高く、接近戦ではその重たい頭を振り回し、その目を見た者を石化させるという厄介な魔物だが、上空からの襲撃には滅法弱い。