序章 墜ちる星
とある田舎町の近くにある森の奥。
鬱蒼と生い茂る雑木林の中、息を切らせながら必死に走る女の姿があった。
肩にかかる程度の長さの黒髪に、線が細く整った顔立ちにうっすらと化粧をした三十代前後の女性で、左手で押さえている肩からはグレーのスーツが裂けて血が流れ出している。
額に脂汗を浮かべ、人里離れてさらに森の奥へと向かうが、背の高い木々の葉が仄暗い視界をさらに闇へ染めていく。
お先真っ暗とは、まさしくこのことか。

――おいおい、いつまで逃げてるつもりだぁ?
彼女の数メートル後方で、ドスの利いた男の声が響いた。
まるで狩りを楽しむかのように声が弾んでいる。
女へと迫る男は、袖なしで上質な毛皮の付いたファー付ダウンベストのみを上に着て、前のファスナーは開いている。鍛え抜かれた剥き出しの筋肉が目立ち、下には黒のダメージジーンズをはいていた。
短い茶髪を逆立て、色黒で右目に眼帯をしており、厳つい悪人面に獰猛な笑みを浮かべている。
特質すべきは、彼の全身をまだら模様の黒い痣が覆い、まるで雲の流れるように肌表面を這ってゆっくり移動していることだ。
それはまるで生き物のようであり、どこかおぞましい。
女は走るスピードを緩めることなく、血まみれの左手で腰のポーチから数枚の紙を取り出す。
それは、面妖な文字――いわゆる梵字が羅列された呪符。

……浄化の焔よ、悪鬼をひとしく焼き祓え、諸余怨敵・皆悉嶊滅――
呪符に刻まれた梵字が赤く輝き出す。
ステップを踏み、わずかに跳び上がると宙で体をひねって半回転し、背後を向く。
そして、呪符を追手へ向けて投げ放った。

――急急如律令っ!

ふんっ、火術程度で!
男は吐き捨て両腕を目の前で交差させる。
すると腕へと一斉に痣が集まり、両腕が漆黒に染まった。
次の瞬間、彼の目前まで迫っていた呪符が次々に燃え始め加速度的に肥大化する。
それは直径三メートルはあるかというほどの炎球となり、熱風が男もろとも周囲の草木を焼いた。
おそらく遠くから見ても、山火事だと認識されるほどの規模。
しかし――

くっ!?
巨大な炎の渦の中から黒く細い刃が真っすぐに伸びてきた。
女は間一髪で横へ跳び回避。
態勢を崩して地面を転がった後、膝立ちの状態で慌てて燃え盛る炎の海を見やると、その中から悠々綽々といった様子で、三日月のような歪んだ笑みを浮かべた男が出て来た。
指先から痣と同じ色の刃が伸びているが、それ以外の痣は元に戻っており、服は焼けているものの体には傷一つつけられていない。

大した呪力だ。たかが陰陽五行でも、ここまでの威力とは恐れ入った。さすがに並の陰陽師とは……いや、高位の陰陽技官ともケタが違うな
男は楽しそうに言い、指先の刃を体へと引っ込め、痣として腕に纏う。
女は悔しそうに眉を歪めると、すぐに立ち上がり踵を返して走り出した。
逃走劇が再開される。
既に日は暮れ、暗い森はより暗くなり、おまけに雨まで降り始めていた。
それでも逃げ切るために足を止めない。

クソがっ! いい加減、飽き飽きしてんだよ!
苛ただしげに叫んだ男は、指を目の前の背中へ向け、痣を収束させて黒い刃を作り伸ばす。
しかし彼女は冷静に、呪符を背後へばら撒くと「界」と唱えることで瞬時的に障壁を作った。それにより刃の接近を遅らせると、横目で軌道を確認して紙一重で回避。
それを繰り返しながら二人は走り続けるが、呪符とて枚数は限られている。
女はなりふり構っていられないというように、乱暴に呪符の束を取り出すと、足元へ投げつけた。

隆起せよ、大いなる大地の化身、急急如律令
男がすぐに追いつき、ばら撒かれた呪符をまたいだ次の瞬間――

んなっ!?
周囲の土が隆起し、そして変形。
大地は無数のドリルとなって下から一斉に襲い掛かる。
男の姿が土煙に埋もれ見えなくなるのを確認すると、女は一気に駆け抜け広い場所に出た。
無数の落ち葉を踏み荒らし、木々の連なる細道へと差し掛かる手前で立ち止まり、背後を振り向く。
周囲では太い樹木が伐採されており、木々や岩などの障害物も少なく視界の開けた場所だ。昼間は陽光の差す見晴らしの良い場所なのだろうが、今は夜で雨も降っているため先ほどまでの道よりは少しマシという程度でしかない。
上空を覆うものがなにもないため、雨でびしょ濡れになりながら彼女が自分の来た道を睨みつけていると、追手はゆっくりと暗闇から出て来た。

……ようやく観念したか? 仔猫ちゃん
男は薄ら笑いを浮かべて立ち止まる。
全身は泥と砂で汚れているが、特にダメージはない。
息も絶え絶えの彼女と比べて、息一つ乱すことなく余裕綽々といった表情だ。

……もうとっくに、仔猫なんて歳じゃないわよ

そうかい。俺からすれば、そんなもんよ
女は柳眉を吊り上げると、腰のポーチに手を突っ込み呪文を唱える。

……栄華を象徴せし欲塊よ、具現せよ――

はっ! 次は金術かぁっ!? 芸達者なことで!
楽しそうにする敵をまっすぐに見据え、彼女は右手と左手でそれぞれ呪符を掴み放つ。
右は前方へ、左は敵の上空へ。

急急如律令!
次の瞬間、男の前方へ迫っていた呪符が捻れ歪み、先のとがった太い針のような金の呪具へと変わる。
それらは敵を殺傷せんと勢いよく進み、上空にまかれた複数の金の呪具もまた、一斉に飛来し襲い掛かった。
男は楽しそうに奇声を上げると、その場で踊る。
それぞれの指先に痣を集めて漆黒の爪とし、呪具を切り払い、かわしきれずに直撃した部分のみ痣を移動させて弾く。
しかし、さらに呪符は追加で投擲され、高速に移動する痣でも防ぎきれない。
少しずつ色黒の肌をかすり、貫いていく。
そしてその数多の攻防の中、繋がれる次の一手。

壱、弐、参、肆、伍、陸、漆、捌、玖拾――
女は目を閉じて両手で印を結び、ゆったりと呪文を唱え始めていた。

高位の封印術式だと!?
すべての金術を防ぎきった男は、驚愕に目を見開いた。
そして膝を折り地を蹴ると、急速で接近し封印の完成を阻止しようとする。
しかし彼女との距離を半分ほど縮めたところで、地面が泥のようにぐにゃりと歪み足がめり込んだ。

なにっ!?
下を見ると、落ち葉にまぎれ呪符が落ちていた。
土術による足止めだ。

ちぃっ、金術に不発の呪符をまぎれ込ませていたか……だがっ!
男の指先から黒の刃が伸び、無防備な女へ迫る。
しかし、金術による呪具のばら撒きは、土術のためだけではない。

っ!
絶句する男の周囲で、地面に刺さった五本の金棒が眩い光を放つ。
それは、男を中心として等間隔に設置され、上空から見て五芒星を描いていた。

呪文を唱え終え、封印の術が完成する。
黒の刃は間に合わない。

くそっ! 待っ――

激しく大きい反響音が響き渡り、黄金に輝く光の柱が天へと昇る。
金術と土術を牽制に使い、流れるような術さばきで真の狙いたる封印を完遂させたのだ。
眩く強い光はやがて、敵の影すら飲み込み、人里離れた森林を包み込む。
それはまるで、神々しい何かが降臨したかのようだった。
――それからしばらく、雨は降りやまず。

……やりましたか?

ああ。それにしてもこの女、最後まで手札を見せやがらなかった
雨の中、冷たい地面の上にうつぶせに倒れているのは、女陰陽師のほうだった。
彼女の胸には小さな穴が空き、ドクドクとおびただしい量の血が溢れ出して、真っ赤な血溜まりを作っている。
かろうじてまだ息はあるが、虚ろな目はなにも移さず、近くで話している二人の男の声が聞こえるだけだ。

さっきの光は?

封印だ。俺もあんな規模のは初めて見たが

実力は確かですか。人違いでもなさそうですね

ああ。滅法を使わなかったあたり、俺の正体にも勘付いてたみたいだ。けど、最後まで式神を使わなかったのが引っ掛かる

なんですって? これでも神将の一人です。なにかあるのかもしれません
二人は黙り込む。
彼らが訝しげに話している中、女の唇はかすかに動いていた。
雨の音にかき消されて気付かれなかったが、彼女は確かに何事かを呪詛のように呟いていた。

最後まで唱えたところで、ようやく二人が気付く。

なにっ!? 呪術!?

この女、まだ生きて!?
男は慌てて彼女の体に触れようとするが次の瞬間、その背中からうねる光の筋がほとばしり、雷鳴が轟いた。
発散した金の光は強烈な電撃となり、二人を衝撃で吹き飛ばす。
その後、動けない彼女の全身からなにか透明の、まるで魂のような光る気体が抜け、天へと舞い上がった。

おい、なんだよあれ!?

今の電撃は……おそらく式神のもの。ならばあれは……
眼帯の男が慌てて立ち上がり、痣を指に集めてかぎ爪を立て女へ迫るが、もう一人が止める。

無駄ですよ。もう死んでいます

ちっ
男が舌打ちして頭上を見ると、彼女から出た光も既に消え、行方が分からなくなっていた。

ったく、なんなんだよ

さすがは現代の神将と言ったところですか

あ? なにか分かったのか?

ええ。先ほどの御霊は、彼女の式神でしょう。自分が死んで消滅するか歪んで妖となる前に、契約を解いて現世に解き放ったのでしょうね

は? なんでそんなこと

おそらく彼女は、あなたと遭遇してすぐ、自分が殺されることを予期したのでしょう。それであなたとの戦いの記憶を式神に刻み、自分の手の内は見せずに、他の誰かに託そうとした

自分の身を犠牲にしてか? 狂ってやがる

彼女もあなたには言われたくないでしょうね

うっせ

それよりも、正体はバレていないでしょうね?

問題ないさ。この時代で俺らのことを知るのは、あのお方だけだからな

それなら良いのですが
謎の男たちは雨降る森の奥に、もう冷たくなってしまった神将十二柱の一人『鬼屋敷月菜』の遺体を捨て置いたまま、立ち去るのだった。
同時刻、遠く離れた田舎の小さな一軒家で星を読む者がいた。
嵐堂銀次は、石塀に囲まれた中庭に面している縁側であぐらを掻き、雲一つない蒼黒の夜空を見上げている。
ここでは星々が爛々と煌めいていて、星読みには最適な状況だ。
銀次は、ふちなしの眼鏡をかけ優しさが滲み出るような柔和な顔立ちに、髪は長めで少し白が混じり、中央でキッチリ分けている。今はゆったりとした紺の浴衣を着て、神妙な面持ちで星を読んでいた。
虫の知らせというのか、なぜか嫌な予感がしていたのだ。

呟いた銀次の声が震える。
彼には確かに見えた。
流星の煌めきが、星の――命の落ちた瞬間が。
信じられないというように目を見開き、しばし茫然とする。

悲壮感漂う声で呟いて、静かに目を閉じる。
無意識のうちに涙がこぼれ頬を伝う。

……あなた? いつまでそうしているのですか? 今晩は冷えますよ
心配して声をかけてきた妻の花へ、銀次は答えることができない。
彼女はそれ以上なにも言わず、部屋から羽織を持って来てそっと銀次の肩からかけた。
深いため息を吐いた銀次は、思わず妻の手を握り、その温もりを感じて気を落ち着かせる。

こんなに辛い思いをするのなら、星読みなどすべきではなかった……

なにかあったのですね

ああ。旧友の身に不幸がね

そう、でしたか……
花は声のトーンを下げて悲しげに呟き、銀次を後ろからゆっくりと抱きしめるのだった。