第一章 女装剣士の誕生
――しくしく……僕、汚されちゃった……もうお婿に行けない……
気付いたときには、すべてが終わっていた。
今このときをもって、リン・カーネルは死に、『ルノ・カースト』という名の女性が誕生した。
リリーナは、うっとりと赤らんだ頬を緩め、耳元でささやいてくる。

心配はいらないよ。いざとなれば、私が責任をとって君をもらい受けるから
やだ、イケメン。
というか、なんでそんなに幸せそうなの?
恋する乙女みたいな顔してるし……

とにかく、まずは自分の姿をちゃんと確認しなさい
リリーナにうながされ、大理石の縁できた姿見の前に立つ。
そして、自分の姿に言葉を失った。

軋んでいた髪は、艶のあるサラサラの黒髪となって後ろへ流しており、前髪はぱっつんに切りそろえられている。
輪郭が細く、綺麗な顔に長いまつ毛。そこから覗く翡翠の瞳は、神秘的な輝きを宿しているようだ。
胸に黒リボンのついた白いブラウスに、紺のロングスカート。
背は高く色白の肌は、洗練された雰囲気によくマッチしている。

もちろん抵抗はしたさ。
でも、リリーナが相手だとまるで抗う力が入らず、思うがままにされてしまった。
もう失うものはなにもないと思えば、なにもかもがどうでも良くなったんだ。
でも、前髪を切られた後はすぐ我に返ったけど。

はぁ……
おっといけない、自然と深いため息が出てしまった。
だと言うのに、リリーナは今までにないほど目を輝かせている。

す、素晴らしい……なんて美しさなんだ!

はぁ、お世辞でも嬉しいです

お世辞だって? バカなことを言うな! 自分では分からないだろうけど、めちゃくちゃ美人だし色っぽいぞ。男だからこその恥ずかしがる様は愛らしくて庇護欲をかき立てられるし、襟から覗く白い首筋は色気がある。前髪を切ったおかげで綺麗な顔も出せて、心なしか声も明るくなったじゃないか。これならどんな男だってイチコロだ!

いえ、そんな能力求めてないです……はぁ、男としての僕の尊厳がぁっ

伏し目がちなのもグッド!
リリーナは声を大にして親指を立てる。
小柄で愛くるしい外見も相まって、とてもキュートに見えるはずなんだけど、今の僕から見れば小悪魔だ。
この人、もしかして変態なんじゃないだろうか……あれ? もしかして僕、なにか重大なミスを犯した?
それに妥協は許さないと、下着まで……うぅぅぅ、思い出すのは止めよう。恥ずかしさのあまり、顔から火を噴きそうだ。

ふふふっ、もぅ可愛いなぁ

むぅ、リリーナさんは酷いお方です……

や、止めて! そんな目で私を見ないで! ドキドキしちゃうから!

はぁ、もう勝手にしてください

ふぅ……危うく新しい世界に目覚めるところだったよ
彼女は頬を赤らめつつも、胸に手を当て深呼吸すると、コホンッと軽く咳払いした。

それじゃあ、自己紹介をしてみようか

あ、はい。リリーナさんの友人の『ルノ・カースト』と申します。どうぞよろしくお願い致します
僕は立ち上がり、あらかじめ言われていた通りに挨拶した。
左足を斜め後ろへ引き、右の膝を軽く曲げて背筋は伸ばしたままスカートの裾をつまんで軽く上げ、頭を下げる。

うん、完璧だよ。これでいこう

はい、承知致しました

それじゃあ、我が友人であり護衛でもあるルノ、ようこそクイント家の屋敷へ。心から歓迎するよ
リリーナは慈愛をたずさえた溢れんばかりの笑みを浮かべ、ゆったりと優雅に手を差し伸べてくれた。
もしかすると、彼女は寂しかったのかもしれない。
この広い屋敷に一人で住んで、美味しい食事やスイーツを一人で食べ、辛いことや困ったことがあっても、相談する相手もいない。
もしそんな孤独感に心細い思いをしているのなら、助けになりたいと心から願う。
あなたこそ、僕の恩人なのだから。
僕は差し伸べられたリリーナの手をとり、新たな世界へ足を踏み入れるのだった。
…………………………
その日、アルゴスが執務室で契約書類に目を通していると、アルゴス商会幹部の一人であるナハルが入って来た。
活気に満ちたその顔は、希望に彩られている。

アルゴス会長、朗報です!


実は先ほど、エンヴァ商会から大口の受注案件が入りました!

アルゴスは手にしていた契約書類を投げ出し、目の色を変えて立ち上がる。
エンヴァ商会といえば、このイージス州と隣接するラビリンス州に幅を利かせている、大規模な総合商会だ。
各地域や他国の各種様々な素材を取り寄せ、販売店を運営する中小商会や鍛冶屋、素材屋など領内へ広く供給している。

どうやら、エンヴァ商会がいつも取引をしている鉱石商の仕入れ先が、落盤などで鉱脈から上手く採掘できず、在庫が心もとないようでして。それで、イージスの鉱物資源シェアの多くを占めている、我がアルゴス商会に取引を依頼したいということでした

アルゴスは、鉱石商としての自分の商売に絶対の自信を持っていた。
イージス州に店を構える他の鉱石商たちは、せいぜいよそから来た行商人から買い取ったり、ハンターギルドに鉱石採取を依頼するなどして、少ない在庫を維持している。特にハンターギルドへ依頼することが多いため、鉱石素材の販売価格も当然高くなる。
しかしアルゴス商会は、資源国であるエルフの国に伝手があり、そこから直接仕入れて、山道や整備されていない街道などの険しい国境を通って運んでくる。普通であれば、そんな大量の鉱物資源をゆっくり運んでいれば、襲ってくれというようなものだが、腕の立つ護衛をつけることで大した損害を受けずに安い原価で大量に仕入れてきた。
そうやって安価ながらも大量の取引が可能なため、販路を拡大しイージス州の鉱石商の中ではトップのシェアを誇るようになったのだ。

それでは早速、準備させます。ただ一点、懸念事項がありまして……


実は護衛の者たちが、要員が一名減った今は非常に危険だと訴えているのです


はい、戦力が落ちてしまったため、他国からの運送はリスクが非常に高いと


私もそう思います
アルゴスはため息を吐いた。
護衛が一人減ったところで大して変わらないだろうと考えている。
そのために新たな護衛を雇うのは、人件費が増えるため極力避けたいのだ。
しかもリンはかなりの安月給で使っていた。
募集をかけたところで、彼と同じ給料水準では誰も首を縦に振らないだろう。

構うものか。あんな根暗男が抜けたところでなにも変わらないのだからな。今の護衛だけでやらせろ

かしこまりました
ナハルが出て行った後、アルゴスは笑みを浮かべた。
今度こそひと儲けできそうだと。
しかし彼らは気付いていなかった。
リンが抜けたことによる戦力ダウンは、想像を絶する深刻な問題であることを。
実際、現場の護衛たちは強くそう訴えていたのだが、ナハルはまともに話を聞かず、簡略化してアルゴスに伝えたのだ。
それが危機的状況に陥る原因になるとも知らずに。