第一章 女装剣士の誕生
その時、僕の右手を小さな手が握った。
ちょっ、ちょっと待って!
突然のことに驚き悲鳴を上げて振り向くと、少女が僕の手を握っていた。
ビ、ビックリしたぁ~
思わず女の子みたいな声出しちゃったよ。
あっ……女の子の手って、すごく柔らかくてすべすべで、温かいんだ。
ちょっとドキドキしちゃうかも。
まだお礼が言えてない。さっきは助けてくれて、本当にありがとう
いいえ、大したことじゃないですよ
あんな凄いものを見せておいて、大したことないとは……変に謙虚だね
彼女は袖で口元を覆ってクスクスと笑う。
一つ一つの仕草が上品で、見た目通りのお嬢様って感じ。
そしてすぐに咳払いして姿勢を正すと、スカートの裾をつまんで少し持ち上げ、優雅に頭を下げてきた。
私はリリーナ・クイント。もし良ければ、あなたのお名前を教えてほしい
リ、リン・カーネルですっ
僕は慌てて名乗り頭を下げる。
一瞬、カーネルの名を出すのをためらったが、さすがにこの国では知られていないだろう。
その証拠に、長い前髪を通して彼女の表情をよく観察しても変な反応はない。
ではリンさん。できれば言葉だけじゃなくて、きちんと別の形でお礼がしたいな
え? いえいえ、お礼なんて必要ないですよ。その言葉だけ十分です
いや、それじゃ私の気が収まらないんだ
僕は微笑を浮かべてやんわり断ろうとしたが、リリーナの瞳に宿る意志は固く、一切退く気はなさそうだ。
堂々とした物言いや、怖気づくことなくゴロツキたちと対峙していたのを考えても、芯の強い女の子なんだろう。
それにしても、よく見てみるとかなり整った顔立ちをしている。
高級なシルクのようにサラサラとした金髪でツインハーフを作り、綺麗に切りそろえられた前髪。
顔は小さく、まだあどけなさの残る甘く可愛らしい顔立ちだが、凛として引き締まった表情は意志の強さを感じさせる。
その雪のように白い肌と、黒いシックなフリフリのドレスのコントラストが見事だ。
まるで精緻な人形のようにも見えた。
どうかした?
あっ、い、いえ……それではお言葉に甘えて
思わず見惚れてしまっていた僕は、慌てて目をそらした。
こんな美少女に手を握られているだけで、もう未練はない……なんて言ったら大げさかな。
それでも、人の手のぬくもりなんて、もう一生感じることはないと思ってたから、なんだか嬉しいな。
なぁんて思ってたら、手を離されてしまった。
もしかしてエスパー?
リリーナは少し嬉しそうに頬を緩めると、大通りのほうへと歩き出した。
僕は手の平に残る彼女の温もりに名残惜しさを感じつつ、ついて行く。
…………………………
リリーナはひとまず、ゴロツキから取り返したアクセサリー三点をアクセサリーショップへ返した。
若い女の子二人が営んでいる小さな店のようで、彼女たちはお礼にと、好きなもの一点を差し上げると言ってくれたが、リリーナは「気にしないで」と言って颯爽と立ち去る。
その後、僕が連れて来られたのは高級料亭。
目の前の純白なテーブルクロスの上には、ご馳走が並んでいた。
肉汁たっぷりな猛獣のステーキに、スライスされた怪鳥の肝、その上に添えられているのは、高級食材として有名な塩漬けされた黒く小さな卵。
他にも、巨大ザメのヒレのスープや高級魚の刺身など、平民では一生かかってもお目にかかれないような料理ばかりだ。
い、いけないっ!
目が輝くのも、鼻息が荒くなるのも、よだれすらも止められない!
ほ、本当によろしいのですか?
もちろんだよ。好きなだけ食べてくれ
い、いただきます!
今日初めて会ったばかりの人の前だというのに、僕は我を忘れてがっついた。
だって、この数日は貧困のあまり少量の野菜しか食べられていなかったから。
そりゃこんなご馳走を前にしたら、我を忘れたりもする。
僕は夢中になって食を進めつつも、時折リリーナのほうをちらりと確認する。
彼女は満足そうに頬を緩め、まるで年の離れた弟を見守るかのような温かい眼差しをしていた。
なんだか途端に恥ずかしくなり、僕はナイフとフォークを持つ手を止めた。
ずいぶんお腹を空かせていたんだね、正直驚いたよ
ご、ごめんなさい……
どうして謝る?
い、いや、だって……
どうしても居心地が悪く口ごもってしまう。
気付いてしまったのだ。
周囲の客たちの視線とささやき声に。
やだわぁ、見てるこっちが恥ずかしい
それになんだあの格好は? 汚らしい、場違いだ
僕は慌てて顔を伏せた。
高級料亭だから当たり前だが、周囲にいる客たちは皆が貴族や裕福な商人。彼らは高そうな服を着て、優雅で上品に食事を楽しんでいる。
そんな中にこんなボロボロの格好でいたら、悪目立ちするのは当たり前だ。
ごめんなさい。こんな格好の僕と一緒にいるせいで、あなたまで笑いものに……
構わない
へ?
君は私の恩人だ。君と一緒にいてどう思われようが、それを気にしたりしない。あまり私を見くびらないでほしいな
リリーナさん……
彼女の言葉が深く心に刺さった……震えてすらいた。
まるで物語の中のワンシーンでも見てるのかという夢見心地な錯覚を覚えるが、彼女のまっすぐで力強い眼差しは、嘘偽りない真実だと語っている。
これだけの奇異の視線にさらされても全く動じていないのだ。
なんて気高く凛々しい女性なんだろう。
……でも、私の配慮が足りなかったのは事実だ。まさかあなたにこんな思いをさせてしまうとは……本当に申し訳ない
……え? い、いえ、謝ったりしないでください! すべては僕が悪いんですから!
そんなことはないよ。もしこの後、時間があるのならどうか私の屋敷まで来てほしい
屋敷……
その単語に固まった。
屋敷に住んでいるなんて、貴族令嬢かよほど儲けている商人の家の娘か……リリーナさん、あなたはいったい……
そ、それでは、お言葉に甘えて……
僕は残りの料理をすぐにたいらげ、リリーナと共に彼女の屋敷へと向かう。
彼女が一緒にいるというだけで、周囲の視線はさほど気にならなくなっていた。
…………………………
リリーナ・クイントの屋敷は、町の外れにあった。
漆黒の柵の内側に広がる芝生の庭の先に堂々と建つ、赤レンガの豪邸だ。
庭はところどころ手入れが行き届いていないところがあったり、壁の表面が少しばかり色褪せていたりと、やや古びた雰囲気を醸し出している。
それでも大きく立派な屋敷であることには変わらない。
正面玄関から入り、広いホールを歩くリリーナの背へ僕は問う。
リリーナさん、あなたはもしかして……
いいや、貴族ではないよ。それは昔の話だ
そう、ですか……
それ以上はなにも言えなかった。
彼女の表情が見えたわけじゃないけど、触れてはいけないことなんだと分かったんだ。
少し気まずさを感じながら、中央の階段を上っていく。
二階に上がってすぐに、応接室があった。
ソファに座って少し待ってて
リリーナはそう言うと、部屋を出て行った。
色々と気になることはあるけど、さすがにこんな広い屋敷を一人で歩き回ったりしたら迷子になるので、大人しくソファに座る。
(凄いっ、ふかふかだぁ)
周囲を見渡すと、絵画や高級そうな装飾品がたくさん飾ってあったりして、なんだか落ち着かない。
ただ、この屋敷には人の気配を感じない。
それがどうも気がかりだ。
さっきのリリーナの言葉から察するに、彼女は没落貴族といったところだろうか?
でもそうなら、まだ屋敷に住んでいるのも、さっきみたいな高級料亭で人に食事をおごれるのも少し違和感がある。
でも、聞きづらいよなぁ
僕が腕を組んでう~んと唸っていると、銀のトレイを持ったリリーナが戻って来た。
トレイの上には、紅茶の香るティーカップと、フルーツの乗ったケーキタルトが二人分乗っている。
彼女は楽しそうに笑みを浮かべながら、ティーカップとケーキタルトをテーブルへ置いた。
甘いものは好きかな? 良かったらどうぞ
っ! ありがとうございますっ、いただきます!
思わず笑みがこぼれる。
スイーツを用意してくれるあたり、リリーナさんも女の子なんだなぁ。
なんだかほっこりする。
どうしても凛々しくてカッコいいイメージが強いから、甘いものが好きっていうのは親近感がわいてきた。
それじゃあ、まずは紅茶から……うん、美味しい。
なんだか心が落ち着くようだ。
さて、それではお待ちかねの……ゴクリ。
のどが鳴る。
そういえばスイーツなんて食べるのは久しぶりだ。
稼ぎの少なかった僕にとっては、嗜好品を食べられるのも、一か月に数回程度。
それでも、相当の甘党だと自負してる。
リリーナさんには申し訳ないけど、僕の舌は厳し――
――美味しい!
ダメだ、庶民の舌では敵わなかった。
生娘みたいな僕の素直な反応に、リリーナは顔をほころばせる。
そうか、良かった
むぅ、なんか悔しい……でも、手は止まってくれないやっ!
そして、一瞬でケーキタルトをたいらげ、幸せのあまり僕が目を細めていると、リリーナが急に真剣な表情になって低い声で問う。
それで、なにがあった?
え?
その格好に極度な空腹、そして居合わせたのが闇市場に近い裏の通り。あれだけの実力を持つ君だからね、どうも違和感を覚えるんだ。なにかしらの事情を抱えているであろうことは、簡単に分かるよ
っ!
私に話してくれないかな?
まるで心を鷲掴みにされたかのようだった。
それほどの衝撃を覚えたのだ。
今まで誰も、僕に興味を持った人はいなかった。
そんな僕の話を聞いてくれようとする人がいる、その事実だけで気が楽になるようだ。
だから、彼女にすべてを打ち明けようと思う。
これは僕のエゴだ。
そっちから聞いてきたんだから、後悔したって止めてあげない。
僕の我慢という壁を壊したのは、あなたなんだから。
僕は、軍事国家の『オリファン』から移住してきました――
すべてを話した。
僕が元々は、鬼人の国であるオリファンに住んでいて、一族は滅亡したこと。
その後、この先進国『ドルガン連邦国』のイージス州へやってきたこと。
そして、アルゴス商会で長年護衛をしてきたことを。
――ちょ、ちょっと待って!
途中まで真剣に聞いていた彼女だったが、突然手を挙げて話を遮ってきた。
はい? なにか?
す、すまない。話の腰を折るような不作法なこと、普段はしないんだけど、可及的速やかに確認しないといけない案件が発生したもので
は、はぁ。それは?
……君はまさか、女ではない?
見ての通り男ですけど
ふ……
ふ?
ふぇぇぇぇぇっ!?
当たり前のことを告げた途端、リリーナは赤面して頭を抱えた。
突然の反応に僕は困惑する。
いったいどうしたんだろう?
わ、私はなんてことをっ……知らなかったとはいえ、男の子の手を握るだなんて、なんて大胆な……ぐぉぉぉっ
リ、リリーナさん?
ハッ! な、なんでもない! 話の腰を折って悪かったね。さ、続けて?
なんかすごく頬が引きつってるんだけど……
それに、顔もまだ赤いし。
まぁいいか。
途中でいったん中断したものの、僕はすべてを話していた。
さすがに、カーネル家の秘密のことは話せなかったけれど、この地へ来てから今日に至るまでのことはおおよそ伝えられたと思う。
さきほどまでなぜか取り乱していたリリーナだったけれど、今は悲しげに眉尻を下げ肩を落としていた。
一言だった。
深く理解を示したような重い言葉。
だが、その一言に救われた気がした、話して良かったと心から思った。
……ん? こらこら、男の子が泣くもんじゃないぞ
な、泣いてましぇんっ!
ふふふっ
リリーナは慈愛に満ちた笑みを浮かべ、僕はとても恥ずかしくなった。
リリーナは腕を組んで目線を下げ、しばらく難しい顔をして考え込んだ後、顔を上げた。
僕を見る眼差しには、決意とも呼べる迷いなきまっすぐな眼光をたずさえている。
よし、決めた。リン・カーネル、君を私の護衛として雇いたい。もちろん、住み込み、まかないつきで
え、えぇっ!?
突然の提案に仰天し、僕は思わずテーブルへ身を乗り出していた。
実は、再び貴族になることを目指していてね。そろそろ付き人の一人も欲しいと思っていたんだ。腕が立ち、強い欲もなく、なおかつ信用のおける存在。そんな条件に当てはまる人物がなかなか見つからないでいたが、君になら……いや、ぜひ君にお願いしたい
で、でも、今日会ったばかりの僕なんかを信用していいんですか?
見くびってくれるな。これでも人を見る目はあるつもりだ。貴族の身分を剥奪され、一族が路頭に迷ってからは、特に磨きをかけている。ここまで接してきた中で、君の言葉に嘘偽りはなかったと断言できるし、そんな酷い状況にあっても闇を抱えていない。そんなリンだから、信用できると思ったんだ
あ、ありがとうございます! でも……
僕はまず礼を述べて深く頭を下げた。
自分を肯定してくれる言葉で胸が一杯だ。
それに、護衛は言わば僕の唯一の取柄が活かせる天職。
そばでリリーナを守ってあげたいと思う気持ちに嘘偽りはない。
しかし、リン・カーネルの名と悪評は、アルゴス商会に町中へ広められているし、姿を知っている人も多い。
とても嬉しいお誘いです。でも、僕があなたのそばにいては、きっと迷惑をかけてしまうでしょう
だから、構わないと言っているだろう。私が君にそばにいてほしいと言っているんだ。でも、それで君が気に病んでしまうのなら……一つ、素晴らしいアイデアがある
彼女は不敵な笑みを浮かべて告げると立ち上がり、テーブルの横から回り込んで僕の目の前まで歩み寄った。
そしてその細く小さな手を僕のおでこに当てる。
そのまま前髪を上へ上げて僕の素顔を確認した。
っ……
僕は我慢するようにぎゅっと目を瞑って唇を噛む。
コンプレックスである女性のような顔を間近で見られたのだ。
突如として不安な気持ちが大きくなり、至近距離にある彼女の顔を見れず目が泳いでしまう。
だが彼女は、少し頬を赤らめ微笑むと告げたのだった。
……イケる
……え? どういうこと?
なにがイケるの?
なんだかとても不安になってきたんだけど!?
い、今なんと?
私に素晴らしい考えがあるんだ
僕の不安など気にしていないのか、リリーナは興奮気味に頬を紅潮させながら告げた。
女の子になるんだ、リン
………………は?
まさか、これが僕の人生における転換点になるとは、このときは思いもしなかったんだ。