第五章 伝説の大投資家
翌日の朝一、開店前の店へ行くと、今にも泣き出しそうな表情のハンナと悔しそうに顔を歪めているマヤの姿があった。
どんよりとした空気に顔をしかめたヤマトだが、すぐに異変に気付いた。
ラミィが一時的に離れて、部屋はシルフィとハンナの二人で使っているはずだ。
ハンナに聞けば、すぐに答えが返ってくると思ったが、彼女はうつむき蚊の鳴くようなか細い声で言った。
それが……朝からどこにもいないの
そんな、どうして!?
そんなのこっちが聞きたいよ!
ハンナは泣きそうな顔で叫んだ。
マヤが黙って彼女の頭をなでる。
どうやらシルフィさんは、昨日の夜から様子がおかしかったみたいなんです
原因は?
マヤは沈痛の面持ちで首を横へ振った。
どうしてこんなことに……ラミィもシルフィも、いなくなっちゃったよぉ
ハンナは端正な顔を歪ませながら苦しげにうめくと、マヤの胸に顔をうずめた。
マヤは猫耳の垂れたハンナの頭を優しくなでる。
大丈夫。私はどこにも行ったりしないから
まさかシルフィまでなんて……
シルフィの花開くような可憐な微笑みが頭に蘇り、ヤマトは拳を握りしめる。
彼女はこれまで、数え切れないほどのたくさんのものをくれた。
彼女のいない日常など考えられないくらいに大事な存在だ。
このまま放っておくなんて決してできない。
そのとき、まだ開店時間前だと言うのに、一人の男が扉を開けた。
そうですよ。しかし申し訳ありませんが、まだ開店前ですので……
――あなたはっ!
営業スマイルで対応していたマヤを遮り、ヤマトが声を上げた。
来店した男は、ドランの屋敷の使用人だ。
彼はヤマトへ丁寧に会釈すると、大きめの巾着袋を差し出した。
……これは?
我が主からです
……意味が分かりません
その中に入っているのは、少なくない額のウォル通貨だった。
そんなもをを渡してくるなど、警戒しないわけがない。
マヤ、ハンナ、アヤが緊張の面持ちで見守る中、使用人は告げた。
主は約束だからとおっしゃっていました
約束? ……まさかっ!?
ヤマトは目を見開いて固まった。
最悪の状況が脳裏をよぎったのだ。
ドランが先日言っていた、シルフィを引き抜くという話。
それをもし、本人に直接持ちかけていたのだとしたら……
ま、まさかっ、シルフィが?
使用人が頷くと、ヤマトはその場にガクリと膝をついた。
シルフィは自分の身を差し出すことで、ヤマトたちを助けようとしたのだ。
ドランがどれほど危険な男かも知らずに。
ヤマトくん!
ヤマト様!
マヤたちが慌てて駆け寄ってくると、ヤマトは大丈夫だと言って立ち上がり、使用人へ告げた。
こんなもの、いりません
それは困ります
それを持ち帰ってドランさんに伝えてください。シルフィは必ず取り戻すと
有無を言わさぬヤマトの圧に、使用人は表情を変えることなく頷いた。
そして店を出て行く。
やられた……くそぉっ!
ヤマトは悔しさに歯を食いしばり、無意味にも地面を殴りつける。
初めて見る彼の痛ましい姿を、ハンナたちはただなにも言えずに見守るしかできなかった。
それから沈黙が続き、しばらく時間が立つと、開店の時間となった。
時計の音が鳴り響くと同時に扉が開き、客たちが一斉に飛び込んで来る。
昨日よりも遥かに数が多い。
ちょ、ちょっと待って!
まだ営業は開始できませんので、どうかお待ちいただけませんか!?
マヤとハンナが慌てて立ち上がった。
押し寄せてきた客たちは、今にもつかみかかりそうな勢いで「金を返せ」と言って来る。
マヤが説得しようとするも、
そんなこと言って、俺たちの金を持って逃げ出す気じゃないのか!?
客たちはヒートアップするばかりだ。
しかしヤマトは絶望のどん底からいまだに立ち直れず、客たちを前にうな垂れたままだ。
アヤはなにも言わず、ヤマトの前に立って客たちの視線から彼をかばった。
ヤマト様は私がお守りしますから
小さなアヤの背中が、今はとても頼もしく見えた。
だが、もうどうすることもできない。
今はただ、不安に押しつぶされそうな少女たちを解放してやるぐらいしか、ヤマトにはできないのだ。
ヤマトは肩の上で不安そうに鳴くピー助の頭をなでると、ゆっくり立ち上がった。
アヤ、ありがとう
ヤマト様?
ヤマトは、もういいとでも言うようにアヤの肩へ手を置くと、目の前に群がる目の血走った客たちを見据えた。
みなさま、このたびは誠に申し訳あり――
――こりゃなんの騒ぎだい?
そのとき、凛々しく力強い声がまっすぐに店内へ響いた。
それはヤマトの言葉をかき消し、彼の頭に懐かしく響く。
ざわめいていた客たちも、ただならぬ覇気に気圧され、急に静かになった。
この声は、まさかっ……
ヤマトは信じられないと目を見開き、前方から堂々と歩いてくる女性に目を奪われた。
やれやれ。上手くいってるって言うから、冷やかしに来てみれば、なんの騒ぎだい?
存在するだけで周囲を圧倒してしまうほどのオーラを纏ったその女性は、長く美しい黒髪を後ろへ流した美女だった。
切れ長の目に、モデルのように高い身長、すらりとした体躯。
高級なベージュのロングコートを着こなす様は、上流貴族のような優雅さをたずさえている。
女は、気だるそうにため息を吐くと、鋭い視線をヤマトへ向けた。
彼女の姿が、遠い記憶にあった思い出に重なり、ヤマトは思わず叫ぶ。
……し、師匠!?
うっさい、黙れ。お前みたいなヘタレ男など、弟子に持った覚えはない
えぇ……
開口一番、キッパリと拒絶されたヤマトは茫然とする。
すると、彼の肩からピー助が飛び立ち、師匠の胸元へ飛び込んだ。
ピー助か。元気だったか?
ふふふっ、お前は相変わらず可愛いなぁ
師匠はピー助には優しい。
先ほどまでの張り詰めた覇気はなく、今は頬を緩ませながら小鳥の頭をなでている。
ヤマトは頬を引きつらせながら、おそるおそるたずねた。
し、師匠、僕は?
あぁん?
ひっ……なんでもないですぅ……
クゥンッ!
突然ピー助がキリッとした顔で鳴くと、ヤマトの肩に戻った。
すると師匠は、「ふむ……」と顎に手を当て思案し始めた。
それまで彼らの様子を黙って見ていた客たちがざめつき始める。
おい、なんだあの女? ここの店主に師匠って呼ばれてたぞ
どっかで見たことが……
待て、あの人、まさかケルベム・ロジャーじゃないのか!?
え? それって、伝説の大投資家じゃ……
嘘でしょ? そんな大物がなんでこんなところに……
さすがは有名人。
彼女の姿を見ただけで正体に気付いた者がいるようだ。
ケルベム・ロジャーといえば、この国イブリスで有名な投資家で、彼女も運用商会を経営している。
その年利は、数十年という長い年数運用していながら、最低でも20パーセントを下回ったことがないというバケモノじみた手腕だ。
ただし、顧客の資産を運用することはしておらず、最近は慈善活動として多額の運用利益を寄付したりしていた。
当のケルベムは客たちの視線など気にせず、周囲を見回す。
そして表情をやわらげると弟子へ問うた。
なんだ、困っているのか?
師匠の問いにヤマトは冷や汗を浮かべつつ無言で頷く。
ケルベム・ロジャーは冷徹で厳しい人だと有名だ。
それは弟子のヤマトが相手でも、変わらない。
しかし、困っている人を見捨てるような人でもなかった。
まったく、手のかかる弟子だ。仕方ない、これからお前の枷を外してやるよ
レイナ!
かしこまりました
ケルベムが名を呼ぶと、後ろで控えていた美しい金髪のメイドが前へ出る。
彼女はひときわ大きい風呂敷を持っており、それをカウンターテーブルの上へ置いた。
師匠、これはいったい……
いいから黙って見てな。おいお前たち!
「「「は、はい!?」」」
ケルベムがざわついていた客たちを見回し呼びかける。
すると、一部の者は声を上げてきちんと姿勢を正した。
彼女にはそれだけの威厳があるのだ。
この中に情報屋はいるかい?
なら、なにボサッとしてんだい!?
スクープだよ! このケルベム・ロジャーが、弟子の運用する商会に数百億って大金を預けるんだからねぇっ!
「「「んなっ!?」」」
周囲が一斉にざわついた。
ケルベム自身の口から聞いたことで、ヤマトが本当に伝説の大投資家ケルベム・ロジャーの弟子と認識しただろう。
さきほどまでの殺気立った雰囲気は見事に霧散していた。
さっ、こっちはつもる話があるんでね。今日は店じまいだ。帰った帰った!
ケルベムは彼らへしっしっと手を振る。
それを見てハンナが控えめに声を上げた。
そんな、勝手に……
ヤマトくんがそう言うなら……
客たちは困惑の表情を浮かべ顔を見合わせながらも、ケルベムに言われるがまま、彼女のメイド『レイナ』に「はいはい、出口はこちらですよー」と誘導されて店を出て行った。
急に静かになった店内には、ヤマトたち四人とケルベムとレイナの二人。
ケルベムは、茫然としているヤマトを見ると、ニィッとエスっ気たっぷりに頬をつり上げた。
久しぶりだな、バカ弟子
相変わらずの口の悪さですね、師匠。でも、さっきはありがとうございました
よせや。お前に礼を言われると、虫唾が走る
あのぅ、言葉の使い方間違ってません? 間違ってますよねぇ!?
師弟の感動の再会にしては殺伐とした会話だが、二人はどこか楽しげだった。
いきなりの師匠登場に戸惑っていたマヤたちは、ゆっくりとヤマトの横へ歩み寄る。
マヤ、ハンナ、アヤを順番に見回したケルベムは、鼻で笑った。
ヤマト、あんたバカ弟子からエロ弟子になったのか?
なってませんよ!
ヤマトが顔を赤くして反論すると、ケルベムはくくくと愉快そうに笑った。
まさか、先生のお師匠様があの伝説の大投資家だったなんて、思いもしませんでした
驚かせてごめん、マヤ。言っても信じられないだろうから、黙ってたんだ
いいえ。むしろ、これで先生の実力にも納得できますよ
お嬢さん、こんなのを先生って呼んでんのかい? こんなヘタレ、悪いことは言わないからやめときな
好き勝手言わせておけばぁ……
ヤマトは眉をヒクつかせ、肩をプルプルと震わせる。
しかしさっき自分のしようとしていたことを思うと、ヘタレと言われても否定できない。
いいえ、先生は素晴らしい方ですよ
そうかい
またなにか言ってくると思ったが、ケルベムはそれ以上なにも言わず頬を緩めた。
どこか嬉しそうだ。
ハンナとアヤのほうは、話についていけてないようで首を傾げている。
わかんない……
まあ、お嬢ちゃんたちにはまだ早い世界さね。もう少し大人になったら、私の名を知ることになるだろうよ
むぅ? お姉さん、なに言ってんのさ! 私たち、もう大人だよ!
そうです、結婚だってできちゃいます!
ハンナとアヤは頬を膨らませ不服そうに言う。
するとケルベムは、顔をほころばせ、小動物を愛でるように二人の頭をなでた。
二人が気持ちよさそうに目を細め、ボーっとしだすと、ケルベムはヤマトへ再び向き直った。
それで、どういう状況だい? いったいなにをやらかしたら、顧客たちに敵意を向けられるのさ?
それが――
ヤマトはここまでのことをすべてを話した。
かつてのパーティメンバーの仕返しのことから、ドグマン家による圧力のこと、誰かが妙な噂を流していること……そしていなくなったシルフィのことを。
シルフィに持ちかけられたであろう話については、マヤとハンナも知らなかったので、少し取り乱した。
――なるほどねぇ、事情は分かった。なかなか厄介なことに巻き込まれているわけだ
師匠、良ければ、手を貸してくれませんか?
断る
即答!?」
当たり前だ。私だってヒマじゃない
そうですよね……
だから、枷を外してやったんだ
さっきも言ってましたけど、かせってなんのことですか?
おいおい自覚がないとはな。私がそう教育したとはいえ、そこまで無関心だと私も泣いちゃうぞ?
またまたご冗談を。師匠が泣くなんて、天地がひっくり返ってもありえな――
――ガツンッ
痛っ!
ヤマトの脳天にゲンコツが落ちてきた。
とてつもない衝撃にたまらず涙が浮かぶ。
すると、すかさず横からマヤが頭をさすってきた。
よしよし
マ、マヤっ!? 恥ずかしいよ……
こほんっ。お前が持ちうる究極の武器。それは、ヤマト・スプライドがケルベム・ロジャーの後継者であるという圧倒的な『ブランド力』と『信用』だ
っ! そういうことですか
さっきのを見ただろう? この国での私という存在の影響力は、それほどまでに強大だ。もしお前のほうがそれを悪用しようものなら、蹴飛ばして奈落の底に落としてやるところだが、今は緊急事態なんだろう? 特別に私の名を使っていい。とういうか、さっきの情報屋が勝手に流すだろう
そうでしょうね
後は好きにやりな、バカ弟子。だけど、女一人取り返せないなんてヘマしたら、許さないからね
もちろんです。シルフィは必ず、救い出してみせます!
ヤマトは拳を握り、師匠の目をまっすぐに見て宣言した。
ケルべムは満足そうに鼻を鳴らすと、マヤの差し出した書類にサインし、正式にヤマト運用の大口顧客となる。
彼女が「また手紙よこせよ」と言って去って行くと、ヤマトはシルフィを取り戻すべく、本気の攻勢に出ようと決意を固めるのだった。
もう容赦はしない――